2014年7月16日 (水)

37回目 「勇ましい言葉」は君を守ったかい?

■H26年7月16日

37回目 「勇ましい言葉」は君を守ったかい?
     ーもう風にならないかー
 

<集団的自衛権の説明から>

 「終わらざる夏」(浅田次郎著)を読みました。そこでは第二次大戦の終戦間際に、兵員が不足し、家族の事情なんぞ考慮されずに徴兵され、将棋の駒のように操られる人々の悲惨が描かれています。
 その時代、軍が国民に発するのは数々の「勇ましい言葉」でした。

曰く「大東亜共栄圏をめざす」
曰く「神国日本が負けるわけはない」


 浅田次郎氏は、これらの言葉を人々に納得させるために、政治と祭祀(天皇の神格化)を一致させることが必要だったのではと物語っています。
 その結果、多くの非人間的行為が正当化され、不幸が量産されました。
 

 安倍首相の口からも多くの「勇ましい言葉」が発せられます。

曰く「戦後レジームからの脱却」
曰く「再び日本が世界の舞台で主導権を握る」


 これって安全保障を外国に依存している国の言えることなの?と素直に感じます。そもそも日本の「戦後レジーム」は連合国の組織である国際連合と日米安全保障条約によって成り立っている。日本は敗戦し、国体の維持のために「手打ち」をした。その結果できたのが今のレジームですね。そこから脱却するのは容易ではない。やってること(集団的自衛権の行使)は、米国のポチになることであり、全く逆ですね。
 ということはこれらの言葉は理屈に基づかない、宗教掛かった「呪文」のようなものでしかありえない。その教義は「経済成長」ですかね。

 もし「主体的に」世界に貢献しようとするなら、まず「集団的(=アメリカのお友達)」ではなく、自らの「自衛」を責任を持って行うことだと思うのですが??「勇ましい言葉」はそうなって初めて言えるはず。でなければ、主人の後ろに隠れて吠えている犬のようなものですわね。

<W杯のサッカー日本代表の報道から>

 私は中学・高校とサッカー部でした。日本代表の選手が満員のワールドカップの会場に入場して、紙吹雪が舞うなんて、当時は想像もできませんでした。だから今の熱狂ぶりはうれしいし、心から代表を応援しています。弱かった時代の代表を知っているからこそ、次のような言葉には違和感を覚えます。

曰く「世界一を目指す」(長友選手、本田選手の言葉)
曰く「我々は代表を信じている」(ギリシャ戦の前の毎日新聞の見出し)

 ギリシャ戦に勝てなかった試合の後、セルジオ越後氏は語っています。
「これが実力だ。結果は驚きでもなんでもない。今大会の他の試合を見れば一目瞭然だ。日本はどの国よりも未熟で、どの国よりも走っていないし、迫力がない。にも関わらず、一番期待されている国だ。<中略>本当のことを言おうとしないメディア。強化よりも興行に気を取られてきた結果、自分たちの実力が実態以上に大きく見えるようになってしまった。」
 全くその通り。なぜ冷静に評価できないのか?メデイアは戦争報道に対する反省から何も学んでいない。「負けたのは気合が足りなかったから」だというのでしょうか?(敗戦後、実際そう語った陸軍参謀がいたらしい。)勝つことを「信じている」のであれば、敗戦は「裏切り」を意味するのか?「戦犯」と特定しないと気が済まないの?私から見れば、ギリシャと互角以上に戦えること自体立派です。予選の3試合を生き生きと戦ってくれれば、「楽しかった。有難う!」と思える。今の日本のレベルではそれだけで十分。
 相手も頑張るのだから、勝つこともあるし負けることもある。だから楽しめる訳!必ず勝つことを義務付けられたらスポーツじゃないです!!
 内容を伴わない「勇ましい言葉」は虚しい結果に結びつきます。もし最初から冷静に見ていた方が、スポーツをスポーツとして楽しめたと思いませんか?

<東北の復興現場から>

 復興の仕事で宮城県へ行ってきた。松島近くの海岸で防潮堤の予定計画高を表示した構造物を見ながら、上記と同じような印象を受けた。本気でこんな不自然な構造物を本気で作るつもりなのでしょうか?(写真で向こうに見える赤白のバーが防潮堤の大きさを示しています。)Photo_2
 宮城県では百年に一度予想される津波高さを基準とした防潮堤を
県内全域に構築する計画を持っており、村井知事は意欲満々です。
(平成26年1月6日知事記者会見より)
曰く「頑固だと言われるかもしれませんけれども、県民の命を守る。」
曰く「50年後、100年後、私は生きていないと思いますけれども、そのときの県民の声を聞きながら判断をしていくというのが私に課せられた使命だ」

 勇ましいですね。安倍首相も集団的自衛権の説明の際に「国民の安全を守るため」と説明をしていました。さて、彼らは国民や県民の何をどう守ると言ってるのでしょうか?

<何をどう守るのか?>

 これらの言葉が「勇ましい言葉」に聞こえるのは、「私達一人一人を守ってあげる」と聞こえ、頼もしいと思えるからでしょう。でもそんなことは可能か?
 先日台風8号が日本列島を通過しました。風はさほどでもなかったですが、雨の影響による土石流等により、3人が死亡しました。H25年度には交通事故で4373人が死亡しました。これらを0にしますと言ってることと同じことだと思います。<27回目「苦難」を克服するもう一つの方法>で詳しくお話しましたが「リスクを0にすることはファシズムです。」例えば自動車の制限時速を20Kmに制限すれば交通事故は激減するでしょう。でもそれで社会生活が成り立ちません。私たちはそのリスクを受け入れて生活しているわけです。そこのところの妥協を強いずに、「守ってあげる」と言われるのはとても耳触りが良い。でも中身は「無茶」そのものです。それは私たちに跳ね返ってきます。
 だからまずは私たちが構成員である「社会」「環境」をどう存続させるかをまず考えないといけない。どこで手を打つかを探らないといけない。「津波」のことだけをとらえて他に捨象されてるものに目を向けないと近視眼的になってしまう。その結果無茶なことに気づかない。そこのところを訴えるのが本当に中身のある「勇ましい言葉」だと思います。
 
 

<「自然構造」と「耐力構造」>

 例えば人が歩く通路を持ち上げるための構築物を作るとします。図で上の絵のように、土を盛り上げるのが、一つの方法です。角度を地盤Desu_pdfの安定角度以内にすれば、力は大地に流れ、耐久性は無限です。これを人工の構造物という方法を採用し、床を持ち上げた途端、風圧、地震、荷重といった力に耐える必要のある構造物となります。従って有限の耐久年数が発生します。
 私は建築設計をに携わる者として、人工構造物の魅力を知っています。設計した建築が上棟し、骨組みが組み上がった時の力強さは美しい。でも、それは、耐久性とメンテナンスを覚悟した上の行為でないといけません。
 かつては都市化への対応に迫られて、建築の高層化が進みました。今は本当に必要で例えば超高層マンションが作られてるのか?とても疑問です。実際、超高層マンションの解体方法は確立されてないのが現状です。これも「力強い表現」に内容が伴っていない事例のひとつですね。遠い将来多分大問題になるでしょう。

<もう風にならないか>

 今回のお話は「里山資本主義的に生きる方法」の流れの中にあります。これまで何回かお話してきた「里山資本主義」は、マッチョなカッコいいスターがリードする社会ではなく、どちらかというとひ弱かもしれないけど、普通の人々がしなやかに生きる方向を志向しています。そのためには「中身のある自然な思考方法」が必要なのですが、今回はその対極にある、一見「勇ましい言葉」の危うさを述べてきました。

 まとめると
①中身の希薄な「勇ましい言葉」は、虚しい結果を生み出す。
②本当に勇ましい言葉は、「社会」「環境」を時間的・空間的に全体を捉えたバランスの上に成り立つ。
③そのためには「力強さ」よりも「自然な思考」が大切。

ということですね。

 
 中島みゆきさんのファンの方はお察しの通り、今回のタイトルは彼女の「風にならないか」に由来しています。この歌詞における「風にならないか」の意味は本文で述べたような意味ではないかと想像しながら、筆を運びました。

(中島みゆき「風にならないか」)

むずかしい言葉は君を守ったかい
振りまわす刃(やいば)は君を守ったかい
ふりかかる火の粉と
ふりそそぐ愛情を
けして間違わずに来たとは言えない
<中略>
あてにならぬ地図を持ち
ただ立ちすくんでいる
もう風にならないか
ねえ風にならないか

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2014年4月15日 (火)

34回目 「ゲーデルの定理」によるコンプレックス解消法

■H26年4月15日

34回目 「ゲーデルの定理」によるコンプレックス解消法
      ~まずは身をかわし、ゆっくりと親しむ~


<私の「哲学」コンプレックス>


 
大学生時代、私は建築学科に所属した。妙に消極的な物言いですね。それは「なぜ建築学科を選んだか?」について、確固とした理由はなかったからです。「建築家は格好よさそう!会社勤めしなくてもよさそうやし?(当時ネスカフェのコマーシャルに清家清という建築家が出演していて、イメージがよかった)」「地に足がついた実践的な仕事のほうが好きだった。(当時から電磁気といった目に見えない分野は好きではなかった)」という理由で漠然とした選択をしただけです。今でも覚えていますが、一回生の時、建築家「丹下健三」の名前を知らなくて、理学部の友人をあきれさせた・・・
  友人には、建築家になることを目標に入学してきた同級生がいました。必然的に彼らはみんなをけん引する存在になって行きます。私などは、彼らに振り落とされないようになんとか着いて行く金魚のフンのような存在でした。もちろん彼らは私の知らない建築家の名前を知ってますし、「哲学的建築論」にも精通していた。彼ら同志が会話してると訳がわからないので入っていけない!「フッサール」とか「バシュラール」とかいう哲学者の話をしている。当時は「記号論」とか「現象学」の流行した時代です。なんとなく憧れるがついて行けない。建築雑誌で紹介されていた「零度のエクリチュール」(ロラン・バルト)という本を試しに買って読んでみたがさっぱりわからない・・・
 そのうち四回生になって、研究室を選ぶ段階になりました。これは、何を専門にするか選択するということです。上記のような先進的な友人は「意匠系」へと進みます。哲学書を読むのを避けたい私はフィールドワーク中心の「計画系」へと進みました。結果的にこれは正しい選択だったと思いますが、コンプレックスはその後も残り続ける・・・・

<「ゲーデルの不完全性定理」と出会った~>

 就職後のことですが、「ゲーデルの不完全性定理」と出会いましPhoto た。本の名前は忘れましたが、内容は印象的だったので、それ以来記憶に残っています。本当は厳密な論理に基づく定理なので、完全に正確とは言えませんが、当時の私の解釈は以下の通りです。

 なんと「どんな理論体系も、その体系の中でその理論が真であることの証明はできない」ということを証明した人がいる!

 これは愉快だな!!と思いました。ということは、「ある哲学者が自分の哲学の体系を構築しても真であることは証明できない。」→「哲学は役にたたない」という事や!当時私は独立して建築設計をするための技術書ばかり読んでいた。それでも心の奥にコンプレックスはあったと見えて、そこから解放されたような気がした!!!
 例えばあなたが何か大きな組織、体系などの対象にコンプレックスを持っている場合、その対象の理屈が真に正しいということをその対象自身が証明することはできません。例えば会社や大学の言ってることは、会社や大学の関係者が正しいと結論づけるのは不可能です。ですので、深刻に考えるのはやめましょう。
 もしあなたが、身近な人にコンプレックスを持っている場合、その人に「あなたの言ってることはおかしい。あなたは嘘つきですよね?」と問うてください。その人が嘘つきの場合、嘘をついて「そうではない」と答えます。嘘つきでない場合ももちろん「そうではない」と答えます。どちらでも同じ答えになるわけですから、その人は自分が「嘘つきではない」と証明できないわけです。(実はこの「嘘つきのパラドックス」がゲーデルの定理の証明と深く関わっています。)詳しくは「ゲーデルの哲学」(高橋昌一郎著 講談社現代新書)を参照ください。
 もちろん第三者が登場して、どちらが正しいかを客観的にはんだんすれば、証明となります。身近なコンプレックスはこれを実行するか、あるいは実行したと心の中で想像して、とりあえずコンプレックスから回避しましょう。(そうはできないコンプレックスもあるかもしれませんが・・)

<遠回りして「哲学」と近づいてしまった>

 独立後は、「建築の技術のことしか知らないというのは薄っぺらな人間になってしまう!」と思い立ち、知識の範囲を広げることにしました。それでも「俺は理科系人間や!」という意識があったので、「経済・社会・政治」といった文系方面に興味を抱かなかった。ましてや「哲学」をや!
 このブログシリーズ(特に21回目以降)を読んでいただいたらわかるのですが、最近は文系の本をよく読みます。これは以前にもお話しましたが、地元の公共事業(岸和田市丘陵地区整備事業)に地権者としてかかわることになり、事業の姿は本来どうあるべきか?という疑問から、社会・経済のことを知りたいと思ったからです。
 その過程で成熟社会(=経済成長に依存しない社会)へのパラダイムシフトが必要だという事を認識しました。その方向性が「里山資本主義」であり「参加と自治による包摂度の高い社会」であるわけです。
 では「参加と自治」はどのように実現可能か?どうしたらコミュニテイーが正しく物事を決定していけるか?その際の社会倫理はどうあるべきか?(これは30、31回目のお話です)ということで「哲学」に近づいてきてしまいました。
 上記の設問に答えるためには「コミュニタリアニズム」という社会倫理の考え方が参考になります。ということで「これからの『正義』の話をしよう」(マイケル・サンデル)を読みました。マイケル・サンデルがコミュニタリアニズムにたどり着いた経緯を理解しようと思うと「アリストテレス」「カント」の哲学を理解する必要があります。
 ああ「カント」までたどり着いちゃったか~って感じです。

<「コンプレックス」に親しむ!?>

 今となっては何のコンプレックスもなく「哲学」と接しています。なんででしょう?多分、「避けたい気持ちがコンプレックスになってしまう」という気がします。今は自分の方から進んで近づいているのでなんの抵抗もない。年齢を経たということもあるでしょうね。若い時には、頭でわかってもできないことはある。現実は頭で考えるほど単純じゃない!その場合はとりあえず回避しておきましょう。それだけでは、気持ちがおさまらない場合は「ゲーデルの不完全性定理」を思い出して気を楽にしましょう!50歳を過ぎたころに再び向き合ってみれば、多分何とも思わなくなっているかもしれない。
 確かに「哲学」というのは学者の数だけ理論があって、とても「誰が正しい」とは言えません。上記のマイケル・サンデルの著書の中にも「何をもって正義とするか」を様々な賢人が思考した過程が語られています。それは単に自己満足のためではなく、「公正な社会はどう成立するか?」という現実的な問題に直面し、苦悩した結果です。その真剣ささえ理解できれば、自然と親しみがわいてきます。

<それでも解消されない「コンプレックス」は最新科学に頼る!>

 それでも癒されない「コンプレックス」はありますよね。たとえば「体の不具合」とか「容姿について」とか・・・究極的には本人の問題ですから、気休めにしかならないかもしれないけれど、「こんな考え方もあるかな?」というお話をします。(少し「飛んだ」内容ですが・・・)
 あらゆる物質は原子で構成されます。私たちの体も、そこにあるリンゴも石もすべてそうです。原子は原子核とその周囲を回る電子から構成されますが、中身はスカスカです。原子核をテニスボールの大きさだと想像すると、軌道電子は5kmほど離れたところを回っていることになるそうな。それらの集合した物質が、なぜ透けて見えずに物質として見えるか?それは単に私たちの脳がそういう風に認識してるからにすぎません!11回目にお話ししましたが、ある脳科学者の女性(ジル・ボルト・テイラー)が脳卒中になり、「自己認識」にかかわる部分に損傷を受けました。その時彼女は世界を「粒子の流れであり、点描画のよう」に認識したという。最新の宇宙論では「私たちが世界を三次元として認識してるのは、宇宙に存在する二次元の情報を再構成しているにすぎない。」という説もあるそうです。私たちは粒子の流れに漂う、うたかたの存在にしか過ぎないわけです。
 なぜかそのような存在に「自意識」という厄介者が乗っかってるので欲望や喜怒哀楽が生じてしまいます。前回もお話ししましたが、この「自意識」もほとんどは「無意識」が処理した結果を追認しているだけの存在です。いやなことは「無意識」のせいなのです。困ったことは「無意識」のせいにしてしまいましょう!

<私のもう一つのコンプレックス>

 私には昔からもうひとつコンプレックスがありました。(実はさっきの「哲学コンプレックス」よりも深刻な話です)人前で話するのがすごく苦手でした。中学に入ったくらいから、授業中にあてられただけでも、話をしてると声が上ずってしまう。必要以上に緊張する性質だった。それはずっと引きずって、独立する際もそれが一番心配事でした。結果的には場数を踏むことによって、解消されました。いまでは「国会答弁だってやってやる!」と思ってますが・・
 これについても、考えようがあります。知人が向精神薬によって、性格改善した実例も見ているし、脳出血で脳の一部に障害を受けると性格が変わるという例も多くあります。
あくまで情緒に関する障害は脳の機能によるものです。「自分」のせいではありません。機能を改善することは可能です。

<ゲーデル氏の最期>

 さてこれまでのお話でコンプレックスは解消できたでしょうか?そんな簡単ではないですよね・・・・
 画期的な業績を上げたゲーデル氏でしたが、晩年は人格障害に病み、治療も拒否して食事に手をつけない状況で死を迎えたそうです。でも最後まで学問に対する情熱は衰えなかったらしい。「神」や「来世」の存在証明にも取り組んでいます。これは世の中に不合理があってはならないという信念に基づいているようです。以下はゲーデル氏が母へ宛てた手紙の結論です。

 「世界は合理的に構成され、疑問の余地のない意味を持ってるという信念を、私は神学的世界像と呼んでいます。この信念は、即座に次の結論を導きます。私たちの存在は、現世ではきわめて疑わしい意味しか持たないのですから、それは、来世の存在という目的のための手段に違いありません。そして、すべてのものに意味があるという信念は、すべての結果に原因があるという科学的原理とも対応しているのです。」

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2014年3月28日 (金)

33回目 「フーテンの寅さん」から日本の再構築を考える

■H26年3月28日

33回目 フーテンの寅さん」から日本の再構築を考える

<子供の心を持ったまま大きくなった大人>


 
武田邦彦氏がいいことを言ってた。(言葉そのままではありませんが)「赤ちゃんはみんなやる気満々です。物を触ったり、なめたりしてるのを見ると、身の回りの事柄に興味津々であるのがよくわかります。それが成長する過程で、なぜか無気力で無関心な大人になってしまう。とっても残念です。」・・・考えさせられますね・・・
 なので「子供の心を持ったまま大人になった人」は魅力的です。そういう人は「大人げない」行為で周囲の人たちを困惑させることもある一方、分別のありすぎる大人には不可能な行為により、キラリと光る真実を感じさせる事もある。そういう人物が主人公として
描かれたのが「じゃりんこチエのテツ」であり、男はつらいよの寅さん」です。
 テツにも寅さんにも周囲に熱烈なファンがいます。テツの場合は例えば
花井拳骨。(テツの小学校の先生でもあり、地元の名士でもあPhoto る。) 花井先生はテツを教え子の同窓会に連れて行く。なぜなら先生は教え子の出世自慢を聞くのがいやだから。テツにはそんな世俗的・常識的な話は通用しない。「それがなんじゃ!」と品の良い教え子たちを蹴散らしてしまう。そんなテツを見て花井先生は溜飲を下げます。
 寅さんの場合は、毎回登場する様々な境遇のマドンナ役の女性ですね。
吉永小百合(歌子)は、父親との関係で悩む女性だったし、岸恵子(りつ子)は経済的に苦しむ画家でした。寅さんは誰でも先入観なく彼女らを受け入れ、励ますことにより、自然に彼女らを癒すことになります。

<「フーテンの寅さん」の世界>

 最近、(特にやしきたかじんさんの亡き後)見たいと思うTV番組がなくなりました。今は唯一、関西では土曜日にBSジャパンでやってる「男はつらいよ」だけが楽しみです。なぜ今寅さんなのか?
 この映画は「水戸黄門」と同じく、毎回決まったパターンを持ったストーリーで構成されています。それでは前回話に出た「漫才ブームの漫才」と同じで「定型的なパターン」ではないか?と思われる方もいるかもしれませんが、違うのです。その決まったパターンの中で「その時代における人生の真実」を描こうとしています。吉永小百合の場合は父親一人を残して結婚する苦悩であるし、岸恵子の場合は女性が芸術家として独り立ちすることの苦悩です。その苦悩を寅さんと、Photo_2 寅屋の家族達は暖かく包み込みます。一緒に悩み、考えます。そのあり様は、今では、少なくとも私の身の回りでは、かつてはあったが失われてしまった世界です。そこのところが、心を打つ。結果、マドンナの悩みが解消されることもあれば、悩みを引き受けながら生きていく決意に至ることもある。解消しない場合でも妹のさくら倍賞千恵子さん)が、「困った時はいつでも来てね。」と声をかける。まさに包摂度の高い世界です。今、こういう空間があれば、救われた人がどれだけいるだろう。「水戸黄門」のように「権威」によって問題が解決するのではない。ここが一番の違いですね。ですので、私は悩みを抱えるマドンナが、寅屋を訪れて、みんなで楽しく食事をする場面がいちばん好きです。うるうるしてしまいます。ここで癒されたマドンナは方向を見出して新たな一歩を踏み出します。その結果寅さんが失恋するというのが物語のパターンですね。

<「フーテンの寅さん」の構造>

 この映画一作ごとの性格は寅さんと毎回変わるマドンナ(とその関係者)で規定されます。極端にいえば、その他はいつも全く同じ構成です。この部分を「胴体」とすれば、寅さんとマドンナは「頭」の部分と言えます。テレビ版も含めると変わっていないのは寅さんの渥美清氏だけです。氏がいわば「フーテンの寅さん」のアイデンテイテイーだったわけです。そのアイデンテイテイーはマドンナと共にに発揮されます。だから映画のポスターは大抵、寅さんとマドンナが大写しになっています。またその結果、氏が役を演じられなくなると同時に「フーテンの寅さん」も終わりました。 
 しかし、この作品を質的に成立させているのは「胴体」部分です。胴体Photo_4部分はさくらをはじめ、柴又帝釈天の御前様等々、のレギュラー出演者、山田洋次監督はじめスタッフとなりますが、メンバーは入れ替わりながらも同質性を保っている。ほとんどの作品で監督・脚本を担当している山田洋次氏が中心的な役割を果たしてるでしょう。以下映画配給会社、制作会社等々莫大な数の人・もの・金が関わっています。これらをベースとして「頭」の部分が乗ってる構造ですね。ただ「胴体」の多くの部分は視聴者からは見えません。また「頭」をすげ替えても作品としては成り立ちます。ただこの作品の場合は渥美清氏のアイデンテイテイーがあまりに強力だったので、頭をすげ替えることはありませんでした。
 「頭」と「胴体」の部分がお互いを尊重しあい、要求を出し合い、あるいは喧嘩しながら映画はできていったのでしょう。

<身体と心の関係> 

 私達の「自意識」「身体(本能)」も同じ関係にあります。「身体」は膨大に複雑で精密な活動をしています。「本能」は意識しなくても生きていくのに必要な行動をしてくれます。私たちの意識はその上にあぐらをかいている会社のCEOのような存在です(8回目「無意識」への招待その1参照)身体は1年もすれば分子レベルで100%入れ替わります。(福岡伸一氏「動的平衡」に詳しい)1年前の自分は今の自分とは物質的には別人です。
 この「胴体」部分の上に「頭」部分である「自意識」が乗っかってる。この部分が、アイデンテイテイーを保持しているので、物質的には別人であっても「自分」だと言えるわけです。8回目でもお話したように、「頭」部分はほとんど「胴体」部分がやってくれていることを追認しているのですが、理性を使って考えることにより「胴体」部分に命令することもできる。例えばもっと体を強靭にせねばと思えばトレーニングすることもできる。かじ取りをすることができるわけですね。進化の結果この「自意識」を獲得したことが人間の人間たる由縁です。

<日本の肉体改造の方向性> 

 ここからが、本題なのですが、この関係は国家といった社会構造の場合も全く同質です。「頭」部分は政府とりわけ総理大臣ですね。「胴体」は累々と存在する議員、官僚、その他公務員らの構成する統治機構、および国民が構成する社会ですね。さしずめフーテンの寅さんの「胴体」部分における主役が山田洋次氏であるとすれば、国家の場合は国民です。「頭」と「胴体」の関係は上の文章がそのまま当てはまります。今、日本は「再構築」が必要で、実際そのための努力が行われています。この構造を前提と考えた場合、はたしてその再構築における方向付けは正しいか??
 日本の現在の状況は30回目(どぶに捨てられた「倫理」を拾い上げる-その①)で述べたように、個人の存在根拠が見つけにくく、
なおかつ社会の個人に対する包摂度の低い世の中です。「胴体」の構成要素自体が病んでいるのですから、まず「頭」より「胴体」の体質改善をする必要があります。といった方向性が認識されているか?

<この体はドーピングでは持たない!> 

 最近のニュースで「海外で通用している優良中小企業100社を選定し、優先的に補助する」とありました。また昨年、「産業競争力会議」において成長戦略の唯一の目玉として市販薬のインターネット販売の解禁が話し合われた。どちらも同じ方向性なのですが、とにかく看板女優をしたてあげてマドンナにするというやりかたですね。まず見かけの良いポスターを刷りたいというのが見え見えです。
 今のモノが飽和した状況で、ある企業が突出して成長するということは、競争に勝つ→敗者をつくる。という構造が全然理解されてません。マドンナをまつり上げるほど、胴体部分が衰弱してしまうのです。
 TVを見てても、経済を立て直すために日本の企業がとるべき戦略として「イノベーションにより付加価値の高い商品を開発し、競争に勝ち残る」ということを述べる解説者がいます。これは「ある企業が生き残るための方策」であり、「日本経済全体に対する処方箋」ではない!!今必要なのは、「スターを作って牽引役にすることではなく、普通の国民が、努力すれば食える仕組みをつくること」であり、そのために必要なのは「分かち合い、包摂、適正な再分配」の政策です!!「パイが限られていれば、競争して取り合うのではなく、上手に分けないといけない」というのは算数レベルの話なのですが、なぜ分からないのだろう?不思議ですね??もちろんスターをつくることも必要なのですが、それだけでよいと思ってるところが大問題ですね。
 今行われている方法(いわゆる「アベノミクス」)を経済学者の浜矩子氏はある番組で「いかさまドーピング」だと話していました。正しい方向に向かうためには「胴体」の主役である国民が「頭」にもの申さないといけませんね。

<「フーテンの寅さん」のエンデイング>

 「フーテンの寅さん」の場合、しっちゃかめっちゃかになりそうな物語を収束させるのは、妹のさくらの役目です。会うべき人に会い、説得すべき人を説得し、バランスをとった解決法を探ります。いささかオーバーランしてしまった寅さんはさくらに諌められ、反省します。そして「いつかお前が喜ぶような 偉い兄貴になりたくて奮闘努力」するために旅に出てしまうのです。

いやあ本当にさくらさんって魅力的ですね~

<終わり>

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2014年3月 7日 (金)

31回目 どぶに捨てられた「倫理」を拾い上げる-その②

■H26年3月7日

31回目 どぶに捨てられた「倫理」を拾い上げる-その②
~成熟社会は「お先にどうぞ主義」で!~

前回、「倫理」には「人間の尊厳を認める」という不変性を持った「自律性」と「他者の痛みを想像する」という「共有性」が必要条件だというお話をしました。これをもとに、最近の出来事を倫理的に考えてみることにより、「倫理」についてもう少し深く考えてみます。

<一流ホテルによるメニュー偽装と罪悪感>
 
この場合の嘘が法的な罪状以上に倫理的に間違っているのは誰にとっても異論はないでしょうが、なぜこのようなことが、多くのホテルで行われていたのでしょうね?想像しますと・・

 (経営者→料理長)「今年の経営目標を達成するためのは、食材のコストはこれだけに抑えてくれ。ただし、質は落とさないようにね」
 
(経営者の心の中)「無理を言ってるのはわかってるけど、あとは知らないし・・・」
 (料理長→食材の納入業者)「ってわけだから、これだけのコストカットをしてくれという上からの命令なんだ」
 (食材の納入業者)「それなら『クルマエビ』を『ブラックタイガー』にしたらどうですか?味は遜色ありませんよ」
 (料理長→食材の納入業者)「でも質は落とすなと言われてるんだ」
 (食材の納入業者→料理長)「『ブラックタイガー』はクルマエビ科のエビですよ。その意味では同等品と言えますよ。実は○○ホテルさんも同じ手をつかってるんです」
 
(料理長の心の中)「それならメニューはそのままでも言い訳できそうだな」
 (食材の納入業者の心の中)「何かあってもこちらの責任じゃないしね」

 というわけで、めでたく「罪悪感」は約1/3となりました。「マイケル・サンデルの白熱教室」にもでてくる話ですが、多くの人は「自分の手を汚す」ことに抵抗を感じます。例えば目の前の1人を殺したら100人の人が救われるとわかっていても、他人がそうするのは容認するが、自分で実行するのは躊躇する傾向がある。同じ理屈で良心がとがめることでも、罪悪感が薄まれば抵抗がなくなります。という仕組みで、<20回目>にもお話ししましたが「システムは大きくなるほど良心が欠落していく」
 しかし、一人一人が小さな罪悪感に基づいて行動した結果、罪悪が大量生産される結果となりました。多分自分で看板を背負ってる個人経営のレストランでは、同じことは起こりにくいだろうと想像できます。

<JR北海道と「衣食足りて礼節を知る」>
 JR北海道の検査データが改ざんされ、あるいは整備不良が多発した事件については、「罪悪感」のあり方が少し異なります。一般マスコミよりもネットの世界で多く語られていますが、JR北海道は、そもそもあまりにも不利な条件での経営を強いられている。鉄道営業キロ数はJR九州とほぼ同じにもかかわらず北海道の人口は九州の約1/3です。経営が他社に比べて格段に厳しいのは、あらかじめわかっていたので、国鉄分割民営化時にはいくらか交付金が出たようですが、焼け石に水でした。
(記事事例:http://www.labornetjp.org/news/2013/1028kuro
 でもこれは始めからわかっていたこと。ある企業の関連会社が格別、経営的に不利であれば、ふつう、再編して助けますよね。JR西日本は大阪駅というもっとも便利な場所を私有化し、これをもとに莫大な収益を上げている。JR東海はリニアモーターカーの開業を目指している。JR北海道はどう考えてもドル箱の東京を抱えるJR東日本が面倒見るのが当たり前かと思いますが・・そうしないなら何と包摂度の低いグループでしょう!何かよからぬ利権のにおいがプンプンしますね。
 そもそも最初に倫理を問われるのは、国鉄分割を差配した、政治家や官僚ですが、彼らの過失(作為かもしれない)は何も問われない。こうして「衣食が足りないので礼節を守れない」状況が生じてしまいました。そのせいで歴代JR北海道の社長のうち二人自殺しました。(と思われています。)想像ですが技術者として、わかっててサボらねばならぬ状況はいかほどに苦しかったと思います。
 というわけでこちらは「罪悪感があっても守れなかった倫理」の事例です。で、結果は非常に重い倫理違反となりました。

<個人の倫理観と組織の非倫理的行為>
 上記二例は、「個人」「組織」における倫理観を考えるための事例です。ここには二段階の問題があります。
①個人としての倫理観は組織(あるいは社会)で共通の規範を共有すべきか?
②個人としての倫理が共有できていても組織としての非倫理的行為は止められないか?

 ①についてはそもそも「倫理」の意味が「社会的規範」なので、問題の立て方自体がおかしいのですが、日本では共通の社会的規範が存在しないことが常態化しているためにあえて問題としました。個人の倫理観がバラバラだということは、何の歯止めもないわけですからよいわけはない。前回も申し上げましたが、ここではその社会規範のあり方を考えます。よく指摘されることですが、欧米にはキリスト教が個人の好き嫌いにかかわらず存在するので、「最後に心の拠り所とする場所」があり、歯止めになり得るわけです。でも「メニュー偽装」のような行為が欧米でもないわけではない。こういう「組織の非倫理的行為」に対しては、「社会に対して償う」(例えば公的機関に寄付を行う)というのが彼らの考え方のようです。合理的ですね。
 問題は②のほうです。これについては後でもう少し深く考えますが、もう一つ明確にしておかないといけないのは、ここでは「法律」ではなくあくまで「倫理」を問題にしているという事です。さきほど「歯止め」という言葉を使いましたが、強制的な「罰則」がなく、「宗教」のように信仰に裏付けられることもないという条件で、何を「歯止め」にしたらよいのでしょうか?

<市場経済の参加者は道徳を守ることが条件!本当?>
 「経済学の父」アダム・スミス「見えざる手」を機能させるために「市場」と「道徳」が必要と述べている。同じく小室直樹「企業家」と「ギャングやマフィア」の違いは「倫理の有無」と述べている。本来「倫理」のない所には正常な市場経済は成り立たないわけですね!でも一般の風潮としては「企業は利潤をあくことなく追求するのが正しい姿」というのが当たり前になってます。なんだか矛盾しますね。「泥棒さんは規律を守らないといけない」と言われてるような気がします。
 「リーマンショック」は結果的に経済の秀才たちが考えた「サブプライムローン」が原因だった。これがもし「破綻を予期しつつ目先の利益を追い求めた行為」であるなら莫大な「非倫理的行為」ですね。少なくとも何らかの原因によって、多くの人が損害を受けたにもかかわらず、当事者は罪には問われていない。このような「市場のような大きな組織における倫理性」はどう考えたらよいのでしょう。でも「サブプライムローン」を考えた人たちが必ずしも悪意や作為を持っていたとはかぎらない。どうも「倫理」とは何かよくわからなくなってきました。
 
 アダム・スミスの「道徳」とは少し違うのですが、マックス・ウエーバー資本主義がアメリカやイギリスで発生したのは「プロテスタンテイズムの倫理」があったからだと結論付けている。「プロテスタントの人々は神の教えに従い、ひたすら労働することにより、富が生み出された。企業家はそれを浪費したり、自分の快楽のために使用することなく、富を再投資した。こうして結果的に営利を追求することが「神の祝福を得ること」と意識されていた。」
 資本主義の発生時においては、「再投資」が「善を行う事」と直結していた結果、営利の追求が行われました。それはなんの矛盾もなかったどころか、社会の幸福に結びついていたわけです。
 この話でやっとなんとなくわかってきました。私は日本の高度成長時代に団塊の世代が「利益」を追求したのに伴い「効率性」を求めるあまり、様々なものを失う結果になったことを嫌悪してきました。この事実は変わらないと思いますが、でも当人たちはそれを幸福の追求のために当然のことと思い、努力してきたわけですから「倫理的には正当であった」と評価するしかない。すなわち

「倫理」は
【社会の変化によってあるべき姿が変わる】
【行う人の心の幸福に結びつくことによって達成される】

<成熟社会における「倫理」は「お先にどうぞ」主義
 
前回、「倫理は簡単に変わってはいけない」と述べましたが、この考えには修正が必要な事がわかりました。簡単に変わるのはよくないけど、社会体制や世界の状況により、ふさわしい「倫理」があると考えないと「過去」との整合性がとれません。ということはこれからの社会にふさわしい「倫理」を考えればよいという事ですね。ここまでくるとわりとスムーズに考えが進みます!
 前回の最後に考えたことをもとにすれば、成熟社会における「非倫理的行為」は「むやみに利益を追求することにより他者が生きていけなくすること」です。ですからそういうことがないように
「他者に配慮すること」が社会規範とならなければなりません。高度経済成長時代にはかならずしもそうしなくても、他者は生きて行けたわけです。
 これは<そこのけ主義>ではなく<お先にどうぞ主義>と言えばわかりやすいのではと思います。これにはまず前提条件があって、
お先にどうぞ」と言えるためにはまず、衣食が足りていなければならない。JR北海道のような場合は、放置していてはいけない。そういう包摂度の高い社会を実現するのがまず先です。保護されるべき弱者や公益的な組織でない場合は、自分で衣食を確保しないといけませんが同時に「お先にどうぞ」と言われる立場です。遠慮はいらない。なぜなら、<お先にどうぞ主義>では、謙譲の精神が行為者の幸福に結びつくからです。でもはたして「お先にどうぞ私はゆっくり景色でも見ながら歩きますから」・・・というような社会規範が日本で成り立ち得るだろうか?

<北欧における「ヤンテの掟」の不思議
 
23回目にデンマークの幸福度についてお話した時に、割愛してたのですが、北欧には「ヤンテの掟(JanteLaw)」という不思議な教えが人々に影響を与えているそうです。これは1933年にデンマーク人作家が書いた小説に出てくる「ヤンテ」とういう街の11か条からなる掟です。例えば「自分が特別だと思い上がるなかれ」「自分が人より善良だと思うなかれ」というような、謙虚を美徳する教えが並んでいる。デンマークにおける平等を重んじた社会の根底に、この教えがあるとも言えるし、「出る杭を打つ」ような足枷となっていると批判する人もいるようです。いずれにしても、誰もが共通の理念を基準に自分の立ち位置を選ぶということで、この掟が社会と深く結びついているのは確かなようです。
 この掟の精神は仏教の教えを思い起こさせます。

 
自分には他者のことは「わからない」ということがわかっていないといけないでしょう。わからないから想像するのです。(中略)ここに「慈悲」の核心があるでしょう(南直哉「なぜこんなに生きにくいのか」新潮文庫)

 「人にわかってもらえるとうれしい」「人に喜んでもらえるとうれしい」という価値観で生きるのは幸福だとは思いますが、これと相容れない価値観の人間が大部分(今の日本社会はそういう世の中ですが)という中でこの態度はなかなか難しい・・・単なる「お人好し」になる可能性があります。その意味で「ヤンテの掟」はお手本になる事例です。実際北欧の国々は「平等とは何かを一人一人が考え、実践し、それが幸福に結びつく社会」を試行錯誤しながら作り上げました。

<社会の「パラダイムシフト」が必要                      Photo      

 今、謙譲や慈悲の気持ちを一番持っているのは東北の被災者の人たちかもしれません。さきの大雪で福島の国道4号線に立ち往生したドライバーに飯舘村の住民達がおにぎりを差し入れました。彼らは「これまで国内外からさまざまな支援を受けてきた、ほんの恩返し」と謙虚に語っています。「お先にどうぞ」と言えるためには同じことを言われた経験が大事というわけですね。
 飯舘村ように
「小さく回る中間社会」が重要なのはこの場で何度もお話してきました。難しいのは「競争」「成果」を求められる「企業」のような組織がふるまう際、「うちは神様じゃないのでその振る舞いが社会にとって善なのか悪なのかわからん!」という困難があることです。「謙譲」が「萎縮」に結びついてはいけない。そうなると健全な社会ではありません。
 ここに社会としての
「パラダイムシフトの必要性」があります。これは小さな社会を包摂する国家というような大きな社会の話でしか解決不可能な問題ですね。大きな社会は、「富のばらまき」ではなく、「再分配」や「格差の調整」や「セーフテイネットの構築」が主要な仕事となります。これは高度成長時代とは明らかに重点のシフトが必要な作業ですね。これがないと倫理の再構築も出来ないという共通認識が必要となります。
 

<「お先にどうぞ主義」は連鎖する>
 
高校の二年先輩に通称「Dさん」がいました。(とても残念な事にお亡くなりになられました。)まさに「お先にどうぞ主義」の人でした。車に乗せてもらうと、どんどん他の車に道を譲ります。それがとても気持ちがいい!何に対しても後ろ向きの話は決してしませんでした。私もいろいろお世話になりました。「まわりの人が幸せになることが幸せ」ということを、ごく自然に実行していた人でした。なのでDさんの周りにはいろんな人が集まってきて楽しかった。今や伝説の先輩です。
 私も21回目以降この
「里山資本主義」シリーズを考えながら、頭の中がすっかり「お先にどうぞ主義」になってしまった。昔は例えばスーパーで駐車する際、なるべく入口の近くに止めれないとムカついていたものですが、最近は近くはお年寄りとかが止めればよいと思い、却って止めにくい所を選んで止めます。いいでしょ!今の目標は典型的高度経済成長時代型<そこのけ主義>である私の奥さんを感化することですが、これが難しい!Dさんとの人間力の差を痛感しています。
 

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2014年2月14日 (金)

30回目 どぶに捨てられた「倫理」を拾い上げる-その①

■H26年2月21日

30回目 どぶに捨てられた「倫理」を拾い上げる
~里山資本主義と「心のよりどころ」~

「倫理」とか「道徳」なんて口に出したらみんな疎ましくて逃げ出して行きますよね、きっと!「建前の話か?」とか「何を気取ってるの?」という声が聞こえてきそうです。それどころか「そんなものは偽善や!そんなことを考えてたら競争に勝てんわ!」という人もいそうです。(これがいちばん多い意見か?)「倫理」は今やどぶに捨てられ、日の目を見ない可哀そうな存在です。

 ただこれは世界的に見て少なくとも先進国においては稀有な話です。明治の教育者・倫理哲学者であった新渡戸稲造は海外で、次のような驚きの声を聞きました。
 「(日本には)宗教教育がない!それではあなたがたはどのようにして道徳教育を授けるのですか」

<ドイツでは「倫理」が原発を止めた!>
 それまで原発推進派であったドイツのメルケル首相は2011年、福島の事故の後、脱原発へと政策の大転換を行ないました。その背景には、チェルノブイリの事故や、かつてから脱原発を主張していた緑の党の躍進がありましたが、最終的には「倫理委員会」の出した結論が、背中を押したのです。
 それは以下のようなロジックによります。
「原発を停止することによるリスクは限定的である。(日本的に言えば「想定内」となりますね。)それに対して原発を稼働し続けることによるリスクは限定不可能である。(想定不可能である。)従って原発を稼働し続けることは「倫理的に」許されない」
 経済でもなく雇用でもなく電気代でもなく、倫理」が最優先されたわけですね。なぜでしょう?ちなみにこの委員会は「脱原発」を目指して構成された委員会であることは確かなのですが、原子力の専門家や電力会社の利害関係者は一切排除して、公開しながら議論を進めています。苦労してやっと出した結論だったようです。でも大事なのは結論ではなく「なぜそうするのか」という、万人が認められる考え方だったわけです。それが「倫理」だったわけですね。この場合はドイツ国民が社会的規範としてこの方針をほぼ共有できたと言えるわけです。

<日本では「武士道」が「倫理」だった!>
 新渡戸稲造は「学校では習わずとも明治時代には道徳的な習慣がPhoto日本人に行き渡っていた理由は武士道にある」と思い至り、「武士道」を著した。この本は世界に対する日本人のアピールでもあるので、多少のひいきは割り引いて読む必要はあると思うが、特にキリスト教との比較をしながら、幅広い知識により、武士道を客観的に解説している。
 注釈しますと、当時の日本において武士道の精神は、その下の階級に属する人々にも浸透していたとのこと。上に立つ者が尊敬に値すれば下々の人々はそれをまねていくからだそうです。(どこかの国の権力者に聞かせたいですよね!)その証拠のひとつは、大衆の娯楽(芝居、寄席、小説等)はあまねくサムライの話である。(義経や信長、秀吉やはては桃太郎の話まで)なるほど!
 新渡戸は最後に「世界に武士道ほど宗教と同列の資格をあたえられた道徳体系はない」と結論付けています。

<日本におけるその後の「倫理」・・・>
 ここで話題にしたいのは、生きていくうえで何に価値を置くか、あるいは何を目標にするかというという社会規範です。どうしたらよいか迷った時の道しるべとなる「心の拠り所」です。それは「宗教」が教えてくれたり、武士道のような「理念」であったりします。ちなみに武士道は仏教にも儒教にも影響を受けています。
 
 新渡戸稲造は武士道がその後の時代には通用しなくなることを既に見越していました。

 「近年、私たちの生活の幅はより広がり、向上している。武士の訴えてきた使命よりも、さらに大きな使命が、今日私たちに要求されている。(中略)人はもはや臣下としての身分ではなく、だれもが平等である市民という存在に成長した。いや、市民を超えて人間そのものなのである。」(新渡戸稲造「武士道」による)

 
 

 はたして武士道より広がりを持った社会規範をその後の時代の人々は持ちえたのか?明治も時代を経ると、日本は西欧近代への文明の乗り換えを行う中で、予想通り仏教や武士道はその立場を失い、天皇という絶対者のもとで「富国強兵」を行うということが、社会的な目標となっていった。さらに第二次大戦後は「経済成長」により豊かになることが、絶対的な価値だったと言えます。これらが社会規範としてふさわしいものだったかは後述するとして、今はどういう時代か?
 生産効率が上昇し、結果としてモノが飽和し、経済成長が見込めなくなると、日本人は何に価値の拠り所を置いたらよいのかわからなくなりました。そのあたりについてはこのブログでも触れてきました。22回目で述べたように、以前は農村社会や町人社会といった「中間社会」に包摂性があったのですが、これらも都市への人口移動により空洞化し、拠り所がないまま、個人は社会の中に漂っています。前回の言い回しでは「今は自己存在の根拠をめぐる闘争はとても過酷で個人には厳しい時代です。」(南直哉)
 すなわち今は①中間社会の再構築と②社会規範の再構築をどちらも考えないといけない状況です。政府が意図しているように、経済成長が復活するなら(原理的にはないと思いますが)、これらの問題はまた忘れ去られるかもしれません。でも今これらの再構築による社会変革を実行しておく方が将来のためですね。

<これからの心の拠りどころはどうしましょう?>
 ①中間社会の再構築についてはこれまでも述べてきたように
「里山資本主義」が処方箋となります。すなわち物事を「小さく回す」ことにより、個人の価値を相対的に高めながら、包摂度の高い社会を創造すればよい。(簡単じゃないけど・・)
 では②社会規範の再構築のほうはどうしたらよいのか?というのが今回のポイントです。もちろん「そんなものいらない!」という人もいるでしょう、というかほとんどの方は今までそうやって生きてきたわけです。でもこれからは何が違うのか?成熟社会というのは、資源にしても食料にしても頭数の分しかなかったら、一人がよけいに取ってしまうと、かならず足りなくなる人がいるという時代なわけ。なので重要なポイントのひとつ目は
「他人の痛みがわかる」「他人の事情にたいして想像力を持てる」ということですね。孟子の言う「惻隠の情」です
 そもそも「社会規範」が持つべき条件のひとつはそれを「誰もが認められる」という
「共有性」でないといけません。それは上記の「他者に対する想像力」と必要十分な関係といってもいいでしょう。なぜならある人がある考えをなぜ正しいと考えられるか想像することによって考えを共有できるからです。
 もう一つの条件を設定するにあたって
「人はなぜ人を殺してはいけないのか?」ということを考えてください。法的には(=便宜的には)戦争では他人を殺してもよいことになっています。また自分を殺した人は罪には問われません。これは「倫理的」には許されますか?もし許されるならテロリストが「これは戦争だ」といえば、殺人は許されることになってしまう。自殺もダメですよね?なぜか?
 要は「便宜」でものを決めたらだめだという事ですね。「社会規範」には
「自律性」が必要です。「便宜」は時代によって変わりますが、「倫理」は「人間としての生き方」ですから、簡単に変わってはいけない。でもなぜ人を殺してはいけないのでしょう?これはひとつめの「他者に対する想像力」では解決がつきません。なぜなら自分を殺す人もいるのですから。これはもう理屈では説明できない。つきつめると「人間の尊厳」を認めるということしかありません。これを認めなければ「奴隷制度」も「中絶」も無条件で正当化されます。倫理はこれを認めるところから始まるといってもよいかと思います。
 
 さて、社会規範におけるこの
「共有性」「自律性」という二つの条件に照らして、私たちの金科玉条であった「富国強兵」「経済成長」は「社会規範」たり得てたでしょうか?いうまでもなく「NO!」ですね。
 このふたつの条件を考えると宗教は「絶対神」を設定するのが人々に理解されやすいということがわかります。皆が「神」という同一の対象を信仰することによって、皆が「価値観を共有する」というのと「絶対的な真理をもつ」ということが同時に実現できます。今の時代は「神」を
「イマジネーション」による理念で代替するしかありません。だからイマジネーションを鍛えることが大事だし、発揮できる社会でないといけません。(これは28回目の話題でした)
 「社会規範」に必要なふたつの条件を持ち得ましたので、次回はこれに基づいて世の中のいろんな出来事を「倫理的に」考えてみたいと思います。

 哲学者の萱野稔人氏は「没落する文明」(集英社新書)の冒頭で次のように述べています。

 「健康でいるとき、私たちは身体というものをほとんど意識することがない。しかしひとたび病気になったり怪我をしたりすれば、自分が身体という、意識によってはどうにもならない有機的物質からなりたっていることを強烈に意識させられる」

 と述べています。これからは、身体の有限性を意識しながら、「むやみに勝ってはいけない」という難しい時代ですね。そのための「社会規範」はどうしたらつくれるのでしょう?・・・ということをうちの奥さんに話したら「そんな理屈は負け犬が自分を正当化したいだけや!とにかくうまく稼いだものが勝ち!」と一蹴されてしまいました。やれやれ・・・・・・・・・


 

 

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2013年12月19日 (木)

27回目 「苦難」を克服するもうひとつの方法

■H25年12月19日

27回目 「苦難」を克服するもうひとつの方法
~里山資本主義⑤ 社会の包摂度を高める必要性

<あなたは「出生前遺伝子診断」を受診しますか?> 
 

 今年11月22日のニュースです
「今年4月から9月末に、ダウン症や18トリソミー、13トリソミー(注:どちらも染色体異常障害です)を調べる新型出生前診断を受けた3514人のうち67人が陽性反応となり、少なくとも53人が異常確定後に中絶したことが判明した。」

 難しい話ですね。どう判断したらよいか迷いますね。

 ニュースでも報じられていますが、そもそも妊婦はまず出生前診断を受けることに悩んだはず。中絶率が高かった背景としては、受診した多くの人が陽性の場合、中絶しようと決断していたことが予想される。その決断をしなかった多くの人は受診できなかっただろう。(敢えてしなかったか、できなかったかはどちらもあると思うが・・)でも受診しなかった人の子に、もし異常が発現した場合、その人は自分を責めることになるかもしれない。中絶した人は、生まれるはずだった子に結果的に異常が発現しなかった可能性について苦しむかもしれない。そもそも中絶すること自体、体によくはないし、このような判断を迫ること自体どうなのでしょう?あなたならどうしますか?
 そもそもこういう判断を個人に委ねることに疑問を感じますよね。社会としてどう対処するべきなのでしょうか?

<人体という組織は「効率的」にはできていない> 

 
あらゆる組織の中で(会社とか機械とかソフトウエアとかすべて含めおよそ考えうる組織の中で)「人体」ほど、緻密で完成度の高い「組織」はないでしょう。そのベースにあるのは、「多細胞システム」だと思う。すなわち、神経系や血管系といった全体システムが存在する一方、ひとつひとつの細胞はDNAという形で、全体を制御する情報をすべて持っている。会社で言うと、一人一人の社員が、会社の経営情報をすべて知ったうえで自分の分担業務をしているようなものです。レベルの高い社員を集めた非常に贅沢な会社なわけ。だからこそ、刺激に対する脳の反応のように、連携した動作が出来ます。ある刺激に対して、主に担当する部署が損傷しても、別の部署で代行することが可能なシステムになっています。
 これはある意味とても「非効率」な仕組みです。先ほどの会社のたとえでいくと、一人一人のデスクに会社のすべての情報が保管されているのですから。でも先ほど述べたように、この仕組みによって、リスクに対する抵抗力が高まりますし、そもそもある中央部署がすべてを管理して指示を出すには、「人体」という仕組みはあまりにも複雑すぎます。一人一人が設計図となる全情報をもちながら、自己組織化する能力が必要なわけです。Pdf
 これを社会における統治システムに置き換えると、中央集権主義では、地方や弱者の隅々まで目が届かない。分権主義社会の方が包摂度が高く、リスク管理能力が高いということになる。21回目の話の中で里山資本主義のイメージ図を示しましたが、この構造はまさにこの人体の仕組みと符合します。(右図)
                        

<それでもリスクは0にはならない> 

 西暦2000年にヒトゲノムの解読が完了した。これで生命の仕組みがすべて明らかになると期待されたが、ふたを開けると、たんぱく質を作る設計図部分は全体のわずか2%程度であることが判明した。当初残りの98%の役割は不明だったので、「ジャンクDNA]などと呼ばれていた。今ではこの部分は調節制御やリスク管理に用いられているらしいと言われている。また、ないと困る大事な部分はコピーをとって保管しているらしい。
 これは福岡伸一氏が「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)で書いている話ですが、氏の研究で、ある臓器の細胞に取り込む物質を制御しているたんぱく質を解明し、そのタンパク質を作り出すDNAの部分をノックアウトしたマウスを育てたところが、そのマウスは全く正常に育ったそうな。生命というのはそれだけ懐の深い(社会で言うと包摂度の高い)仕組みなわけですね。
 それでもリスクは0にはならない。癌細胞は細胞分裂という多細胞生物の仕組みそのものを利用して増殖する。外敵であるウイルスも進化する。複雑すぎる仕組みのバランスがくずれ、失調症が生じる。やっぱり人は苦しむ。何とかならないのだろうか?

<私たちは成り行きで進化してきたんですよね> 

 そもそも私たちは人間になるために進化してきたのではないのです。「病の起源」(NHKスペシャル)の内容が正しければ、私たちが二足歩行に移行した原因は、二本足で立ち、両手で雌に食料を持ってきた雄が、優先的に雌と交尾できて子孫を残せたからとな。その結果「腰痛」から逃れられない。同番組によると、脳は、古い脳の上に成り行きで新しい脳を載せており、血管が長くなりすぎて脳卒中になりやすいそうな。進化によってリスク対応能力を高めるだけでは構造的に複雑すぎて制御できなくなくなっちゃったんですね。そもそも「進化」は種が生存するための戦略にすぎないのだから、一人一人の生存は関係ない。アフリカのヌーが100万頭もの集団で大移動するのは、、ライオンに襲われる可能性を高めているようですけど、これは却って何頭か食われる方が、生き残る総数が多いという戦略なんですが、これと同じことです。
 なので個人にとっては進化の方向性は正解とは限らない。正解でない部分は自分たちで何とか正さないといけませんね。

<苦難に立ち向かうもう一つの方法> 
 
 

 例えば「交通事故を0にしよう」という目標を立てたとします。これは自動車社会を現状のままにして達成できるか?人間の不注意や自動車整備上の不備をOにできるか?というと無理だと考えるのが常識でしょう。かつて民主党政権で鳩山首相が「生活道路は時速20Kmに規制するのが良いと思う」と言ってましたが、この人は車を運転したことがないですね。きっと!これはリスクを0にするためには皆バカになれ!と言ってるようなものです。」もちろん交通事故を減らす努力はできるし、するべきですが、あくまで社会常識の範囲でするべきですね。あるひとは「リスクを0にせよというのはファシズムである」といいました。
 もう少し悩ましい例を挙げると、東北の復興において津波対策をどうするかというのがあります。津波を真正面から防ぐ方法としては、何十メートルもの防波壁をつくるか、津波のおそれのある地域の立ち入りを禁止するしかない。でも津波の恐れは日本中にある。この対策はまさに「ファシズム」ですね。
 先ほどの交通事故の例に戻ると、私たちはどう向き合っているのでしょうか?ひとつの救いは「原因をなくすため自分の意志で注意することができる」ことです。それでも事故は起こりますがその場合「保険制度がある」「ちゃんと救急車がきて病院に連れて行ってくれる」というバックアップ機能がある。ということで対処ができます。でも運が悪ければ死亡事故も起こる。そのリスクを引き受けた上で、やはり自動車を使うということが、社会的な共通認識になっているわけですね。津波対策の話が悩ましいのは、すぐ避難できる場所とか、どこかに取り残されたと時に助けに来てくれるしくみが、整備されていないからです。
 つまり、苦難に立ち向かうもう一つの方法は「苦難に直面した時の対処方法を万全にしておけば、あと結果がどうなるかは運命だと割り切って考えることができる。」という社会としての意志です。
 

<「私たちの意志」はどこへいった!> 

 で、話を人体の話に戻します。人体の仕組みについては脆弱性は認めざるを得ないものの、確かによくできている。ですから社会の仕組みを人体に倣うのは、間違っていないでしょう。ここで、人体のメカニズムと上で図示した社会のメカニズムにはひとつだけ大きく異なる要素がある。それは「社会は人体内部とは異なって、自分で観察でき、私たちの意志でコントロールできる」ということです。社会をつくる動物だということ自体、進化の結果なので、進化の悪口ばっかり言ってられないけれど、「個人には手に負えないものは、社会で対応できる」ということです。先ほどの「交通事故」の例でいうと、「保険制度」や「医療システム」が整備されているということ。
 だから「出生前遺伝子診断」を実用化するのであれば、まず
社会におけるバックアップを十分確保しないといけない。すなわち、子供が遺伝に基づく病気になった時、親をどう支援するか、子供が送る一生をどう支援するか、という仕組みを用意しないのは無責任ですね。こういう仕組みが、整っていれば、病気を運命として受け入れることができる。それでもやはり、リスクを減らしたい人は、自分の意志で診断を受ければよい。
 この場合でも、リスクを0にするのはほとんどファシズムです。遺伝が関係している可能性のある病気はがんの他に「糖尿病」「神経変性疾患」「アトピー」「アルツハイマー」等々きりがない。
 ただ、さらに言えば、遺伝子異常や、前回(26回目)触れた身体障害については
、「人間が共通に持っているリスクなのだから社会が対応する」というのが大原則でなければならない。そういう意味では、出生前遺伝子診断をするのであれば、検査料は社会が負担するのが筋でしょうね!こうして社会の包摂度が上がれば、不要な将来不安が解消され、人は貯蓄を消費に振り向け、経済もよくなると思うのですが。
 現実には「エコカー減税」「家電のエコポイント制度」などという、耳触りの良い名目のもとに、税金は大企業に手厚く分配されているのが現実です
「私たちの意志」のありかたはどうも社会として採るべき方向と一致していない思いませんか?

 
<ひょっとして私たちの不完全さは進化の余地となりうるのでしょうか?>

本稿は「社会の包摂度を高めることが不安の解消につながり、苦難に対するもうひとつの対処法となる」ということを述べるのが趣旨です。「出生前遺伝子診断」については、その説明のための例として挙げたのですが、「私たちの社会は生命のメカニズムとうまく折り合いをつけることができていない。」という話の方に少し話題が振れてしまいました。書きながら、これについては、もう少し話を整理する必要があると感じましたので、次回の課題としたいと思います。
 「進化」や「本能」といった、生命のメカニズムは、私たちの社会にうまく働いているのでしょうか?私たちが進化によって獲得した「自己意識」や「意志」はどう生かせばよいのでしょうか?
 「人体のメカニズム」が完璧であれば「社会のシステム」もそれに倣えばよくって話が早かったのですが、なかなかそうはいかない。これは難問ですね!
 

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2013年11月26日 (火)

26回目 「私達」は私達を大事にしていない!

■H25年11月25日

26回目 「私達」は私達を大事にしていない!
~里山資本主義④ 物事を「小さく回す」必要性

<私はある女性に頭が下がります>                                  Photo_3
 
大阪地下鉄の難波駅構内に「エキモ」というショッピングモールがオープンした。右の写真の右側は以前壁でしたがショップが連なる通路となった。
 ここでよくある女性を見かける。彼女は体が不自由です。病名はわかりませんが
、関節がうまく動かず、体をねじるようにして歩く。壁に手をついて寄りかかりながら、休み休み歩を進める。以前は朝見かけました。私が仕事の都合で15分早くここを通るといつも見かける場所の30Mくらい手前を歩いていた。それくらい時間がかかるわけ。私の通勤時間が少し変わり、最近は夜見かけます。力を振り絞って歩くその姿を見るたび、つまらないことに愚痴を言う自分が情けなく思え、彼女に励まされてしまいます。
 ところが「エキモ」が出来て、片側は完全に壁がなくなってしまい、片道は人の流れに反して写真の左側の壁に頼らざるを得ない。しかもこの壁は広告だらけで手摺はありません。
 実は数年前、この左側の壁の奥に
「aiaiモール」ができ、その部分は壁がなくなってしまった。彼女はそういう場合、柱に手をついて少し休み、次の柱まで一気に歩きます。当時これは大変だろうと思い、駅員(助役の赤松さんといいました。)さんに「こういう女性がいるが、手摺をつけたらどうか?」と尋ねたところ、「そういうことは、本人が申し出てくれないと受け付けられない」という返事でした。「とにかく一度歩いている姿を見てもらったら、私の言ってることがわかるから」と名刺を渡し、結論が出たら連絡してくれるようにとお願いした。その後赤松さんからは何の連絡もない。
 で、今度は「エキモ」の工事。今度は手摺がつくかな?と見ていた。左の壁にテープで何か印をしていたので、手摺の支持金具の取付け位置なのだろうと思っていましたが、ついにつかなかった。そこでまた問い合わせた。(今度は
助役の金森さんという方です)曰く「そういう要望で手摺を付けだしたら通路全部につけないといけないので不可能。」とのこと。なんとなく理屈が通るようにも聞こえますが、果たしてそうでしょうか??

<システムが大きくなるほど「良心」が欠如していく>
 
この理屈に反論はいくらでもできます。例えば、鉄道の駅には、列車が到着したときに連動して開く扉の付いている、転落防止柵が設置されてる駅とそうでない駅があります。これは全部つけなくてよいのか?必要なものはより必要なところからつけていけば良いだけですよね。現に「大阪市福祉のまちづくり条例」には「障害者の利用頻度の高い建築物等では(義務ではないが)手摺は両側に連続して設けることが望ましい」と明確に謳われている。それを「義務でないものはすべて不要」と結論づけてしまう背後に何が存在するかというと、24回目でも述べましたが、「現場を見てイマジネーションを働かしても仕方のない仕組み」が出来ているからです。この場合で言うと、「自分ひとりが手摺が必要と思ったって仕方がない」組織ができているのです。これは「システムが大きくなるほど「良心」の入り込む隙間がなくなっていくからです。(20回目の伊坂幸太郎氏の言葉を参照してくだPhotoさい)実際見たら必要と思わない人間はおそらくいません!!
 ちなみに
「手摺をつける予算がないから」という理由は全くあてはまりません。まあこの写真をみてください。私は建築に携わる者としてあきれます。これは柱の足元の写真です。細い金属の棒状の装飾が円弧状に埋め込まれています。一度床の石張りをした後、張った石を円弧状の溝の形にカッターで切り抜いてから、棒状の金属をまげて、差し込んでいました。手間のかかる工事です。固い石が現場で円弧状に綺麗に切れるはずがなく、見てもらうとわかりますが、手間と金がかかってる割に効果はほとんどありません。こんな設計するほうも間違ってますし、金の使い方が全く間違っています。

<「私達」にとってひとりひとりは他人ではない!>
 「私達」は私達の「社会」のことです。
社会の仕組みを考える際には、「ある人に起こる事は自分にも起こりうる」という考え方が必要です。(そのためには「イマジネーション」が必要です・・)これが民主主義の根本のはずなのですが、なぜか「自分の利益を主張」して「多数決でものを決める」のが民主主義だと考えられている節がありますね。
 たとえば(誤解を恐れずにいうと
)「障害者は『四つ葉のクローバー』です。」生物の世界では異常は一定の割合で発現します。ある庭で見つかる四つ葉のクローバーを全部摘み取っても、しばらくすれば同じ割合で四つ葉のクローバーは現れます。これは「ある障害者が、もし存在しなかったら、その症状は自分に発現していた確率がある」ということです。だから障害者には「手を差し伸べて助けてあげる」のではなく、「自分が正常であることをその人に感謝する」のが正しい態度なわけ!!

<物事を「小さく回す」必要性>
 物事を「小さく回す」
ことによって、上記のような冷たい社会をなくすのが「里山資本主義」のひとつの目的だと思います。「里山資本主義」の考え方については21回目~23回目に紹介しています。
 たとえば最近の「メニュー偽装問題」。そんなに騒ぐ問題じゃないという人もいますが、「法律」を犯してなければ罪は軽いと考えるなんてとんでもない!「仁義」は「法律」よりも重い!こんな事が、店主と客が顔なじみの小さなレストランで起きるでしょうか?
組織が大きくなって、客の顔が見えず、責任も分散されてしまうから、こんなことになるわけですね。アメリカ軍の無人殺戮機の原理と同じです。
たとえば「伊豆大島」で起きた台風による土砂崩れに対して、国の避難勧告の方法が不備だったという指摘があります。これも国による大きなシステムに頼るからいけない。自分たちの島のことは自分たちが一番知ってるのだから(たとえば地盤の弱い場所とか・・)小さいシステムを併用することで、初めてきめ細かな対応が可能になります。

<今日も彼女は歩き続けます>
 
南海難波駅から千日前線難波駅までの乗り換えは本当に遠い。私も疲れた日にはうんざりしながら歩きます。本当は「動く歩道」とか「ボランテイア人力車」のようなものがあればよいのですが・・。彼女の他にも、杖をついた人やびっこの方もよく見かけます。そのたびに「弱い者に冷たい社会やなー」と嘆きます。「エキモ」は大阪市が商売のためにやってる施設ですよ!。商売も結構ですが、そのために困ってる人がいることを想像できないのか??せめて手摺くらい何とかならんのか??と思います。本当に!!!

 
 



 

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2013年9月13日 (金)

23回目 そもそも私たちの目標は何だったのだろう

■H25年9月13日

23回目 そもそも私たちの目標は何だったのだろう
      ~とどのつまりは「里山資本主義」~

前2回は「里山資本主義」についてお話しさせていただきましたが、最近この内容に関係して気になるニュースが2つありました。
ひとつは
9月8日「2020年東京オリンピック開催決定」のニュース
もうひとつは
9月11日「『幸せな国』番付、トップは欧州が独占 日本は43位」というニュースです。

<「東京オリンピック開催決定」の憂鬱>
 
オリンピックはいいんです。多分、緻密な計画ときめ細かな対応により、気持ちのよい大会が開催できると思います。7年後が楽しみです・・・・「7年後か~たいへんな時期やなあ・・・」と考えてしまいます。
 いろんな心配事が指摘されています。「震災復興にかえってマイナスになるのでは」とか「ロンドンオリンピックは赤字だった」とか。でも何より心配なのは
「オリンピック以降のことを考えているか?」という話です。
 例によって
藻谷浩介氏に登場していただきます。「デフレの正体」によれば(藻谷さんのよく言うようにこれは意見ではなく事実なのですが)2025年には団塊の世代が75歳を超え、75歳以上人口が今の五割増しくらいになり、あとは横ばいになりますが、これ以降も生産年齢人口(15~64歳)の減少は止まりません。この傾向はさらに続いていくと予想されており、もし(非現実的な話ですが)明日から少子化が劇的に改善されたとしても彼らが年齢に達する15年間は状況は変わりません。生産年齢人口=消費の活発な人口ですのでその減少分は内需が縮小し、高齢者に対する負担が増加するのでその間、日本は耐え忍ばないといけないという理屈です。
 オリンピック特需により一定の経済効果はあるでしょう。真面目な日本人のことなので、目標をもって頑張ることで、景気が上向き、「アベノミクス」が表面的には成功している、という状況が続くかもしれない。そうしてオリンピックが無事終わった時、先ほどの事態に直面します。
 今は成熟(非成長)社会にあわせて価値観を転換せねばならない時代の節目です。前2回に登場した識者たちはそれに気づいていて
、「中央集権的管理から分権的協調の時代へ」と主張します。 「里山資本主義」はその理念を表す言葉として有効です。<私の予想していた望ましい日本の将来像>としては、「アベノミクス」が「成長戦略」のところで破綻する→経済的にかなりひどいことになる→やっと多くの人も価値転換の必要性に気付いて、よい方向に向かえばよいな~と思ってたのですが・・。
 ところがこのオリンピックという、すごくインパクトのある「お祭り」に浮かれている間に本来必要な転換が先延ばしになるのでは?というのが一番心配です。
付け加えると、3.11の震災(特に原発事故)により、今まで覆い隠されていた事実が露頭し、「他人まかせ」「国まかせ」ではいけないと言う機運が芽生え始めていたはずなのですが、こういう動きもオリンピックという「国家事業」の影に再びしぼんでしまうかもしれない。
 ですので、オリンピックを準備する人達は、地に足をつけ
、「成熟社会」において、日本がどう生きていくかを踏まえながら、それにふさわしいオリンピックを準備していただきたいと願います。(私がとやかく言っても何の効果もないとは思いますが・・・・)

<世界一幸福なデンマーク人は世界一が嫌い!>
 9/11に発表された順位は以下の通りです。
 1.デンマーク
 2.ノルウェー
 3.スイス
 4.オランダ
 5.スウェーデン
 6.カナダ
 7.フィンランド
 8.オーストリア
 9.アイスランド
 10.オーストラリア
(評価指標については詳しくわかりませんが、不幸を感じる要因として「貧困」「失業」「家庭崩壊」「身体疾患」が挙げられている。)
 北欧の国々は幸福度の調査では常々上位を占めます。たとえばフィンランドは日本と同じく1980年代にバブル期を迎え、その後、大不況を経験していますが、現在はちゃんと軌道修正できている。デンマークはいろんな調査の「幸福度」で世界一です。なぜでしょう?これを探る記事をひとつ挙げます。
タイトルは「[北欧現地インタビュー:幸福感とモノ編]物質的なモノから幸福度を感じられる時代は終わったhttp://diamond.jp/articles/-/20200?page=2*このサイトの前後にも関連記事がいろいろあって面白いです)
読んでいただいたら、いろんな点でうなずいてしまいますが、ここには筆者の最後のコメントを引用しておきます。

<取材をしていてとくに感じたのは、やっぱりみなシンプルな生活を送っているということ。彼らは自分たちが今持っているモノや暮らしている社会の中で、どういうふうにしたら楽しく過ごせるのか、よく知っているのだと思います。>

もうひとつ同じシリーズで、デンマークに留学した日本人女性の体験記があります。「デンマーク人は本当に幸せなのか?住んで初めてわかった『幸福感』の違いhttp://diamond.jp/articles/-/32485
 このルポは、現地の生活体験に基づくだけあって、なかなか深い!デンマーク人は「ほめられるのが好きでないそうです。」(ええっ!?)

<ある女性は、「最高という言葉は、勝者と敗者を作ってしまうので問題ではないかと思う」、と言います。驚くほど過敏に反応するので、授業が終わって別のデンマーク人に聞いてみると、「ベストという言葉は好きじゃない。ストレスだもの。十分という言葉が好き。最高にはなりたくない」と言うのです。> 

 今の日本人が聞くとずいぶん違和感がありますよね。でも妙に目標を高く持つことがストレスになることは確かです。そういえば昔の日本には「足るを知る」という良い言葉がありました。上の北欧現地インタビュー」の中にもありましたが「自分の生活をコントロールできていると言う意識が幸福につながる」といっている人もいます。私の言いたいことがわかっていただけるでしょうか?これを社会の仕組みで言うと「自分の手の届く範囲だけでもよい社会にしよう!」経済の仕組みで言うと「もうからなかったけど、世の中の役に立ったし、楽しかったからいいや!」ということに価値を見出せる態度かと思います。
 
 デンマークの幸福度が「高福祉国家」という制度をベースにしていることも確かです。所得税55%、消費税25%といいますから、ほとんど税金にもっていかれます。でもでもだからこそその税金をどう再配分するのが平等かを議論する必要性が高いために民主主義の質が高まりました。利用者による、参加型の制度、それをささえる分権化が既に達成されています。21回目で書きましたが宮台真司氏が「『参加と自治』を実現しなければならない。」と述べているのはこの国の制度を前提としています。市民参加により異なる考え方を徹底的に議論し、専門家によるインフォームドコンセントを進め、最後は事実の共通認識により専門家を除いた決定を行う、と言うのが原則のようです。(どこかの国の例えば原子力行政とはえらい違いですね!)結果デンマークは「民主主義の質が高い国ランキング」でも世界一です。日本にはこれが悲劇的に欠けていることは21回目に述べました。(ちなみに日本は25位)

<そもそも私たちの目標は何だったのだろう>
 
このフレーズは「藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?(学芸出版社)」という長いタイトルの本の帯に書かれていた言葉です。「経済成長は目標ではなく、手段の一つ」→「では目標って何だったっけ?」とういう文脈です。
 「里山資本主義」はそのひとつの回答です。それは先ほどの北欧の人々が「幸福」を感じる理由と共通点が多い
「身近に価値を見出せる社会」を再構成することが必要です。もちろんそこから飛び出してもっと大きな世界で価値を見出そうとする人も必要です。ポイントは、選べると言うこと。それが「包摂社会」に結びつきます。
 マネー資本主義においては例えば株を買って会社に投資するのは、配当により利益を得ようとする行為ですね。これはGDPに反映される「経済成長」です。一日お百姓さんの仕事を手伝っておいしい空気を味わい、御礼に野菜をもらって満足するのは経済成長にはカウントされませんが、先ほど得た利益と比べてどちらが価値がありますか?という問いかけです。
 またユニクロで買い物すると売り上げの一部は瀬戸内海オリーブ基金として寄付されますが、もし地元で使ったお金が、地元の自然の保護に使われるなら、そちらの方がいいですよね。自分の目に見えるし、地元の経済のためにもなります。そういう仕組みをつくるほうがひとりひとりにとって価値があるのではという考え方です。

<GDPは全てを測ることができる・・人生の価値を高めるもの以外は・・>
(1968年 ロバート・ケネデイの演説より)

以前にも述べましたが私は特に「幸福」になりたいとは思いませんが「健康でいたい」とは思う。そのために必要なのは「栄養のある野菜」と「ストレスの無い社会」だと考えている。前者は自分で作れるのですが社会の方はそうは行かない。ストレスだらけです。どうも居場所がないなあといつも思っている。それは社会が悪いのか、はたまた本文のようなことを考えてしまう自分が悪いのか?多分ここまで根気良くつきあっていただいた方は社会の方が悪いと思っていただけるでしょうね。きっと!

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2013年8月28日 (水)

22回目 しつこく「里山資本主義」

■H25年8月28日

22回目 しつこく「里山資本主義」
    ~人は個性をてらわずとも自尊心を持って生きていける~

前回「里山資本主義」について書きました。話題が「経済・社会の在り方」0905_2 の理屈にかたよってしまいましたが、「里山資本主義」は同時に「人間の生き方」でもあると思っています。特に前回の話だけでは「実践しよう」とはどういうことか?ようわからん!と思われた方もおられると思います。今回はその辺の所を少しスローにお話できたらと思います。

<幸せの「青い鳥」はどこにいるの?>
 
以下武田邦彦氏のブログより引用します。これは幕末の日本社会を見聞したスイス人の記述だそうです。

 
-若干の大商人だけが莫大な富を持っているのに更に金儲けに夢中なのを除けば、人々は生活の出来る範囲で働き、人生を楽しんでいる。職人は自分の作る物に情熱を傾け、それがどれくらいの日数を要したのではなく、満足できたときに終わる-(「幸福」その四より)

 この時代(幕末から明治・大正の頃と思ってください)多くの人々は「個性を発揮しなさい!」と教育されることもなく、(これを戦後教育の悪弊という人も多いですね・・)自分の仕事に誇りを持って暮らしていました。
 
養老猛司氏がよく言ってますが、「仕事は社会のニーズによって生じるものであって、自分を仕事に適合させるのが当たり前であり、自分にふさわしい仕事を探すと言う考え方はおかしい」この意味で「自分探しはナンセンス」・・・その通りだと思います。
 「仕事」をする目的は究極的には「私を承認してもらう」ということしかないと考えます。余るほどお金を持っていても、仕事がなければかえって苦痛でしょう。しかし「承認される」ためには他者の存在が必要なわけです。
個性」が不要と言ってるわけではありません。それ以前に「社会性」が必要ということです。そのためには「ちゃんと他者を承認できる社会」が必要なのですが、これは後で述べるとしてまず「人間の生き方」の側から話を進めます。
 先ほど引用した「職人さん」は社会性を持ちながら(本人は意識して無いかもしれないが、一般的現代人と比べて)自尊心を持って暮らせていたように思います。なぜか。多分自分の身の廻り(自分の仕事、自分の住む街や人々)にちゃんと生きる価値を見出せていたからです。当時の人々はグローバルに見ると個人所得なり社会的権利のレベルは低かったかも知れない。でもそれとは関係なく、生きていく上で
「身近に見出せる価値」を有していたことが重要なんですよね。きっと。
 「当時の人々は衆愚的で井戸の中の蛙のようなものだからそれが出来たのだ」という反論もあろうかと思います。実際その後「モダニズム」に突入し、あらゆる人が同じ価値観の「豊かさ」を求めるようになりました。でも行きついた結果が「格差社会」であり、「自殺率の高い社会」ですよね。里山資本主義」は昔に還ろうという思想ではありません。グローバルな視点を持つからこそ見出せる
「身近に見出せる価値」を活用してこれからの社会を回す原動力にしようという思想です。まるで「幸せの青い鳥」のお話ですね。実際そういう価値観で暮らす私の友人のお話をいたします。

<S君の選択>
 S君は私の高校の同級生です。大学も同じですが彼は農学部卒で、製薬会社に就職しました。多分給料は私の何倍ももらってたのでは?と想像します。ところがある時、名簿の職業欄が「農業」となり、住所欄は和歌山の山奥の地名になっていました。彼の実家は大阪市内にあり、農業とは全く関係がありません。私が農業に係わり出した頃、興味があって、遊びに行きました。
 海沿いのJRの駅から車で山へ向かい、「どこまで行くんやー」と思う頃、彼の家に着きました。理由はわかりませんが、この地方は家同士が接近してなくて、山間に散在するような集落になっています。家の前は自分の田畑になっており、縁側に座ると、彼の栽培する作物と、「猿よけ」に飼ってると言う犬が走り回っているのが望めます。季節になると庭先に蛍が乱舞する光景が広がるとのこと。都会人には望むべくもない環境です。
 彼に「なぜこういう生活を選んだの?と尋ねました。曰く「都会で暮らすと、全て『お金』に支配される。そうではない生活がしたかった」・・・幸い奥さんも同じ価値観の持ち主だったようで、まるで和歌山版「大草原の小さな家」です。小学生の娘さんが回りで咲く花の名前をいっぱい教えてくれました。
 でもここまで山奥にする必要はあったの?と尋ねたところ、大阪府内では、彼のような新住民に農地を貸してくれるところは見つからず、ここでは受け入れてくれるという噂を頼りに、流れ着いたようです。同じようにして大阪から移住して来た人達を紹介してくれました。ある夫婦は大阪市内で商社に勤めてましたが、定年をきっかけに引っ越してきて「農家レストラン」を経営しています。自家栽培を徹底していて、店のまえの水田では合鴨農法の鴨たちが戯れています。2000円のランチを頂きましたが、受け取った価値はまさに「プライスレス!」チーズの燻製が絶品でしたが、「チーズは自家製でなくてすみません」とおっしゃってました。マスコミでも紹介されたそうで、地域のグルメスポットとなっています。こうして小規模ですが地域の経済が回ります。
 S君は「マネー資本主義」からは逃避したかもしれませんが、「社会」には以前よりコミットしています。「自分たちを受け入れてくれた人達を大事にしたい。そうでないと次に希望する人達が来れなくなる」という仲間意識が強いようです。こうして新しい「農村社会」が形成されつつあります。この人達は得られる収入も少ないが生活費があまりかからないので可能になったライフスタイルだという側面もあります。地元の人達にとっては当たり前でほったらかされていた「身近に見出せる価値」を彼らが活用しているわけですね。 
 
<包摂性のある社会>
 高度経済成長の時代に富を求めて若者は農村から都市に移動しました。輸出産業の拡大が優先され、農村は過疎化し「農村社会」が崩壊しました。一方、都市では新住民が大量に流入することで、旧来の秩序が崩壊し、「町民社会」も崩壊しました。結果個人と世界の間に存在した「中間社会」が空洞化し、個人がばらばらな価値観で世界に漂う社会になりました。成長を続け、利益を生み出せている間はよかったのですが、モノが飽和し、人口が減って経済が縮小せざるを得ない時代を迎えると、「負け組」が発生し、十分な分配が不可能となり、先ほど述べたような困った社会になりました。
 
「里山資本主義」はそうした社会に対する処方箋でもあります。つまり、身近な範囲で回っているサブシステム(中間社会)が存在することにより、「身近に見出せる価値」で生きていけるわけですね。もちろんメインシステム(グローバル社会)で元気よく活躍する人も不可欠なのですが、それだけでは逃げ場がありません。「20回目 伊坂幸太郎への依頼」にも書きましたが、システムは大きくなるほど「良心」が欠如して行く。だからなるべくサイズダウンすることが大事なんですね。そうすれば一人ひとりの存在価値も高まります。承認される可能性も高まります。浜矩子氏の言葉で言うと「エコ」で「スロー」で「やさしく」てみんなで助け合う社会というのは一見ひ弱なイメージですが実は蟻の生命力のようにしなやかで崩れにくい社会をつくれるのではと思います。
 
宮台真司はかつての秋葉原通り魔事件(挫折した若者が起こした無差別殺人事件)はよく言われる「格差社会が悪い問題」ではなく「誰か何とか言ってやれよ問題」だと表現しています。そのためには中間社会を再構成して「包摂性のある社会」を創る必要があると主張します。
 私が子供の頃(昭和40年頃)は、実家の農村はまさに包摂社会でした。以前書いたように、みかん農家の山村でしたが、うちの父親は、旦那さんが早くに亡くなった家のみかんをいつも車で市場まで運んでいました。知恵遅れの方がふらふらと歩いていると、「これを持って帰りな~」と言ってその日収穫した野菜をごく自然に分けあげていました。それは自分の父親を「かっこいいなー」と思った瞬間でした。


<あなたの街にも里山資本主義>
 都市においても置き去りにされているが価値のあるものがたくさんあります。例えばよくシャッター通りと揶揄される駅前商店街や高齢者の余剰パワーとか。前回紹介したNHKの動画の中にありますが、お年寄りが子育て経験を生かして託児所に協力するという例はお年寄りと若いお母さんの双方にとって利のある、汎用性の高い事例ですよね。
 
藻谷浩介さんが「里山資本主義」のなかで、あなたも出来る事例として挙げているのは以下のような事例です。
①地元で取れたものを買う(地産地消ですね)

②人に何かを贈る時には自分の近所でしか手に入らないものを選ぶ(都内で採集したハチミツなんてあるそうですね)
③少し思い切った話としては、近所で放置された空き地があれば一時的に借りて畑にする。なんてのもあります。
 とにかく
「身近に見出せる価値」を活用して、そこに楽しみを見出せればそれがあなたの「里山資本主義」です。もうひとつ同書の中から引用させていただきます。
 
あなたはお金では買えない
(中略)里山資本主義の向こう側に広がる、実は大昔からあった金銭換算できない世界。そんな世界があることを知り、できればそこと触れ合いを深めていくことが、金銭換算できない本当の自分を得る入り口ではないだろうか。
 
 
以上「里山資本主義」という、とても夢のある考え方に出会い、これは応用性が高いと感じ、多くの人に知ってもらいたいと思って感想を記しました。別のところで得た知識を加えつつ、弱冠拡大解釈しながら述べています。

 「マネー資本主義」は大嫌いです。「株式会社」は人類の偉大な発明のひとつらしいですが、市場などという訳のわからないものに翻弄されないといけないと言うのは何とかならんのかと思います。銀行に誘われて入った投資信託ではだいぶ損をしました。それ以降私は銀行の人に次のように話をすることにしています。「お金を置いておきたいだけの理由で加入したのに、損をさせると言うのは『振り込め詐欺』より悪質や!詐欺なら詐欺師が奪った金を経済にまわせるが、投資で損をするなんて金を生かさずにどぶに捨てるようなもんや!もう私はいっさい投資なんかしません。貧乏でもいいから自分が汗かいた分だけで生きて行きますから!!!」

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2013年8月16日 (金)

21回目 「里山資本主義」を実践しよう!

■H25年8月16日

21回目「里山資本主義」を実践しよう!
    ~マネー資本主義にはもうこりごり~

<アベノミクスはアホノミクス?>
 これまで何度か申告いたしましたが、私は「理科系人間」です。「文系人間」とはどうも相性がよくない。「経済」という言葉も好かない。「スポーツ大会」や「イベント」の経済効果は○○です。・・という言葉を聞くと、「俺らは経済効果のために生きているのではない!」と思ってしまう。ましてや「サマータイム導入による経済効果はXX」なんぞ「人をバカにするな!!」と叫びたくなる。(なりませんか?)
 まずもって「金の勘定」が苦手です。今でも事務所の帳簿をつける際、頭から金額を記入すると千円単位の「,」の位置を間違えるので、尻のほうから書いたりする。そんな人間ですので、経済についても浅薄な知識しか持たない。無意識に「経済」を遠ざけてきた・・
 これはまずいと思い、暇な時、「アベノミクス」についての動画をボーっと見ていた。語り手は経済学者の浜矩子氏。この人はTVで見ても怖そうな表情Photo_4 をしているし(ごめんなさい!)、ぼそぼそとしゃべるので、あまり積極的に語る内容を聞いた事無かったのですが、なかなか切れ味鋭く、淡々と知的なジョークをはさみながら理屈をきっちり説明する。「アベノミクスはアホノミクス」と表現し、いかに時代遅れな政策であるかを容赦なく解析する。
 「ああそうやったんか」と思いながら聞いてると、インタビュアー(神保哲生氏)が「では日本のど ういうところに良いきざしが見出せるか?」と質問した。でまた例によってぼそぼそと「私たちは『里山資本主義』と呼んでるんですけど・・・」と語り始めた。
(YOUTUBE「アベノミクスは浦島太郎の経済学だ」http://www.youtube.com/watch?v=2CInH3eo10k
*里山資本主義については40分頃から)

<里山資本主義とは?>
 里山資本主義と聞くと何となく「田舎暮らしの経済学」のことかな?と思ってしまいそうですが、そうではありません。グローバルな「マネー資本主義」に対抗する原理です。もともとはNHKの広島放送局が中国地方の里山で元気な活動をしている人々を取材した番組に由来します。この番組のナビゲーターは藻谷Photo_3 浩介氏(「デフレの正体」の著者です。「里山資本主義」も新書化されています。<角川oneテーマ21>)
 
NHKというところは不思議な組織ですね。「温暖化」や「原発報道」では事実に反すると非難する科学者がいる一方、(私もそう思いました。)「復興予算の無駄使い」をスクープしたり、「原発の廃炉方法は確立していない」と、はっきり報道して、これには原発関係者が反論したりしています。多分、考え方が一方向的でセカンドオピニオンの検証が十分ではないのでは?ともあれ、この番組は評価に値すると思います。広島という地方局が渾身の気合をこめて世に問うたのではないか?NHKの番組動画がNHKのサイトで全部見れるというのも異例かと思いますが、この理由によるのではと思います。詳しくはhttp://www.nhk.or.jp/eco-channel/jp/satoyama/interview/motani01.htmlを見てください。ただ番組は一般視聴者用なのでビジュアルな要素が強調されています。理論については先ほどの「里山資本主義」をお読み下さい。
 
この文章を理解していただくために、とりあえず簡単に説明いたします。例えば岡山県真庭市の建材メーカーでは電力の買い取り価格が今ほど高くなかった時代から、工場で発生する木くずを使った発電を行ってきました。木くずを捨てるのにコストがかかる事を比べると原価は0円です。(これを役所主導で「バイオマスエネルギー」とか言って、そのために木を切って発電すればかなりのコスト高になります。)しかも電気代は、地元に落ちるので、地元経済が回ります。木くずは暖房にも使えます。これで地元の農業用ビニールハウスの暖房に使えば、「安定したエネルギー」となります。なぜなら、中東で紛争が起こって原油価格が高騰し、農家や漁師さんたちがとばっちりを受けるということが無くなるからです。
 また島根県美ノ郷町の耕作放棄地では、人口飼料を使わず、山草を利用した放牧により、おいしい牛乳を生産する若者がいます。この様に里山では「近代合理主義的生産」の影で忘れ去られている資源、お金に換算できない資源が未利用のまま眠っています。他にも「お年寄りの労働力」「近所付き合い」「ほっと一息つける自然」も資源になります。これらを活用して、地域経済を回して行くことが、行き詰った「マネー資本主義」にとって替わる(正確にはミックスして存在するのですが)経済原理になるのではという考えです。キーワードは
「地域が自立する」ということ。

 

<時代は中央集権的管理から分権的協調へ>
 
ここまでの説明ではまだ「都会人には関係ないよ!」と思っておられる方がほとんどかと思います。そうではなくて「里山資本主義」の考え方は都市にも応用できますし、様々な局面から、同様の考え方が叫ばれています。世の中を冷静に見つめる人達はいろんな分野で同じような結論に至りつつあるのです。
 例えば社会学。
宮台真司はこう語る。「現代社会ではかつて利Miyadaishinji益共同体であった中間社会(個人と国家の間にある社会。例えば「農村」)が崩壊してしまった。→個人の価値観がバラバラに存在する→個人の意見や利益を元に政策を決定するのは不可能→この状況で民主的に物事を決定するには『参加と自治』の実現しかありえない。→そのためには『手が届く範囲』で物事を決定していく必要がある。」彼はこの「参加と自治」の仕組みが日本に存在しないと嘆くが、全くその通りと思う。(というか実感している。)地方が国のお仕着せの事業を疑念を持たずにこなしている体制は何としても変えないといけない。橋下徹氏石原慎太郎氏も体験的に実感しているので地方分権は絶対条件と感じているのですが、実感のない国民にとっては今だぴんとこないのでしょうかね?
 電力供給における
スマートグリッドも同様の考え方だと認識しています。すなわち今まで送電・配電は電力会社のインフラストラクチュアだけに頼っていました。この構造が脆弱である事は福島第一の事故で証明されました。今後は電力を地産地消し、余った所から不足する所へと効率よく電力をまかなう、というネットワークを組む事により、よりアクシデントに強い、しなやかな構造が成り立つわけです。

 文章で説明しだすときりがなさそうなので、ビジュアルな模式図を作ってみました。
1m

 宮台真司氏は
「そもそも日本には民主主義が成り立っていない。(上の模式図にも書きましたが)バブルの絶頂期においてさえ、日本における幸福度指数は世界で80位くらいだった。この国の国民は不幸だ。」と嘆きます。全くその通りだと思いますし、状況はますます悪くなってるのではないでしょうか。裁判に無理やり参加させられるよりも、民主主義を機能させるために汗を流したほうがよさそうです。もちろん国民にその覚悟がないとだめなんですがね。

<藻谷浩介氏の苦悩>
 
藻谷浩介氏
は地域振興が専門で、日本のほとんどの市町村の実態が頭に入っていると言う。そういう人物だからこそ部分と全体の両面から物事を見る事によって「里山資本主義」の概念を導き出せたのでしょう。私は街づくりに興味があるので「里山資本主義」を先に読み、後から「デフレの正体」を読みました。
 
「デフレの正体」は本人も書いてるように、工学系の人間向きです。なぜなら物事を根拠に従って理屈立てて論を組み立てているからですが、得られた結果は「経済学の常識」とは相容れないものです。よって「経済学」に通じる人達からは非難されています。このブログでも何度か述べてきましたが「空気ではなく、理性で論じる人間はバッシングされる」の典型例です。私はこういう人達が好きです。頑張って欲しいと思います。
 大体「空気で物を言う」人達の特徴は、実証的に定量的に語らないことです。例えば「TPPに参加しないとバスの最終便に乗り遅れる」とか。・・藻谷氏は「アベノミクス」にも疑問を投げかけています。中身は「デフレの正体」に詳しく書かれています。で、「アベノミクス」の仕掛け人でもある
高橋洋一氏の説明も聞いてみました。彼の説明の多くの部分は「これは経済学の常識です」でした。・・・・・「経済学」と「実体経済」は乖離しているということの証左ですね。福島第一の事故により「原子力技術」と「原子力産業」は乖離していることがわかったことを教訓にできていないわけですね。
 
宮台真司氏はこういった社会を正常化するために中沢新一氏らと立ちあげた団体(グリーンアクテイブ)の設立趣意書の冒頭に以下の様に記していることを紹介してこの文章を締めたいと思います。


日本はいまだに民主主義の社会ではない。

民主主義を獲得するには政治文化の改革が必要だ。

それは以下のような変化である。

〈任せて文句たれる社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ

〈空気に縛られる社会〉 から 〈知識を尊重する社会〉へ

 

 
 


 

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