2018年7月25日 (水)

61回目 まわりはみんなのっぺらぼう!その2

61回目 まわりはみんなのっぺらぼう!その2
     -私は「何物」?-

<日大悪質タックル問題から>

記者の質問
「監督の指示がご自身のスポーツマンシップを上回ってしまった理由は何か?」

選手の返答
「監督・コーチからどんな指示があったにせよ、自分で判断できなかったことは自分の弱さです」

この問題に関するTBSテレビキャスターの松原耕二氏のコメント
「私がニューヨーク支局時代、ヤンキーススタジアムで野球を観戦すると、観客・選手・監督の間に「敬意」が感じられた。日大チームにはこの「敬意」が感じられない。」

 選手が自分で判断することを尊重する環境をつくるのは、管理者側の仕事ですから、これは選手のせいではないよね。個々の判断を尊重することを松原氏は「敬意がある」と表現した。これは意味深い話ですね。

<イチローが日本に帰って来ない理由>

 この「敬意」の存在がイチローをアメリカに引き留めているのだろうと私はひそかに確信しています。おそらく「記録」や「名誉」よりも「敬意」がアメリカで野球を続ける楽しさに結びついているのだろう。

 日本の組織では、上からのコントロールが優先されて、間違っていると知りながら自分の意思で判断できないことはおそらく数多い。今、日大の選手と同じ思いを抱いているだろう方たち・・

 書類を改ざんしたり隠したりさせられる財務省や防衛省のお役人たち、それを指示したり、ほのめかせたりした方たち・・・・

<そして私は「何物」なんだろう?>

 正論を声高に叫ぶのはたやすいですが、実行するのは難しい。正論だけでは「社会」と折り合いがつかないことも多い。それは「賢い」とは言えない結果になりがち。どう折り合いをつけるかは、一人ひとりが自分で考えないといけない。

 「何物」は学生達が就職活動という場で自己と向き合いながら、社会とどう折り合いをつけていくかを描いた朝井リョウ氏の小説です。

例えば

二宮拓人(主人公)
大学時代は演劇活動をしていたが、辞めて就活を始める。冷静な分析・判断ができるがゆえに、自分を殺して「就活用の演技」をすることにためらいがあり、なかなか内定がもらえない。他人のこれみよがしな取り組みに対しても裏では冷めた目で批判的に見ている。

A君(名前は無し
与えられた質問にユーモアを交え、人を引き付けながらそつのない回答ができる。無理をして「演技」をすることもなく「地」で就活できるタイプ。

小早川里香
留学経験や資格、委員活動など持ってるものすべてをアピールして就活に臨んでいる。まるでそれまでの活動はすべて就活に利用するためにあったかのよう・・ただ二宮に言わせると、「自分の意見はひとつもない」ということになる。

宮本隆良
「会社の考えに合わせて自分を変えたくない」と、就活しないこと宣言し、クリエーターを目指す。だが現実には、なかなか成果に結びつかない。

 自己との向き合い方の典型的な登場人物を挙げました。(これだけではありませんが)A君以外は、それぞれ悩みをかかえながら、就活に向き合います。二宮に言わせるとA君も「自己を持たない」という批判対象になるのだろうか?私はA君のように振る舞える人はある意味うらやましいと思う。(私にはできない芸当なので)

 私自身二つの事を思った。
 ひとつは、自分に対する反省。私はアルバイトしていた設計事務所に就職したので、きびしい就職戦線を知らず、彼らのような自己との葛藤を経験していない。その分「大人」になれずに社会人になっちゃったのではないだろうか?
 ふたつめは、若者に対する同情。こういう経験を通して、彼らは過度に社会に同調することを覚えてゆく。結果、先ほどの日大選手のように後悔する結果となるかもしれない。また社会に折り合いをつけることは「夢」を失うプロセスでもありますね。不必要な同調圧力が存在しない社会であってほしい!

<敬意の感じられる社会へ>

 今の与党と野党の間には「敬意」のかけらも感じられませんね。結果、まともな議論が成り立たず、道理が死ぬという結果になっている。
 なぜそうなるかというと、主導権を持っている側が、その権限を自分の「損得」のためにだけ使って、人をコントロールしようとするからですね。
 日大チームもそうであるし、就職活動も同じです。

 これを解決する手段のひとつは、主導権を持っている人間が、好き勝手に振る舞えないルールをつくるという方法。ところが多くの場合、ルールを変える権利は主導権側にしかない。これが問題ですね。

<ウオーターゲート事件の教訓>

 1972年、ウオーターゲート事件の際、アメリカは、大統領の犯罪を捜査するには、FBI等政権のコントロール下にある既存の組織では不可能であり、他に対応できる制度がないことがわった。その結果独立検察官」という制度を創設した。独立検察官は、大統領ではなく、司法長官が任命する。それに対してニクソン大統領は、司法長官を罷免する等して、自己のあらゆる権限を使って、事件の捜査妨害、もみ消しを試みた。これが明るみになって、弾劾裁判に結びつき、大統領が辞任することとなった。今も「独立検察官」の存在は、トランプ大統領に恐れを抱かせている。

 要は、アメリカは、最高権力者をチェックする機関がないことがわかれば、民主主義の危機だと認識して新たな制度をつくったわけです。逆に言えば、権力者はその権力を自分に有利に使いがちなので歯止めが必要だということですね。しかし多くの場合、そういうルールにはなっていません・・・コントロールする方の判断にゆだねられることになります。

<避難は自主的に>

 とにかく、人を無条件にコントロールしようとするのがどうも間違っていると思います。
 先日の豪雨では、私の住む地域にも「避難指示」が出ていましたが、「何から」避難させようということがまずわからない。OX川のどのへんの堤防が決壊しそうだと言ってくれれば、何が危険でどちらに逃げればよいか自分で判断できるのに・・・
 避難する側もいろんな事情があるので、とどまるべき人もおるだろうし、逃げたほうが良い人もいる。とにかく、そんな事情は無視して、こちらがのっぺらぼうな集団という見方で一方的に命令だけが来る。
 福島第一原発の事故では、放射性物質の移動方向が示されず、ただ逃げろと言うだけで、多くの人が無用な被爆をこうむりました。

<簡単な結論>

 コントロールする側はされる側に対して

①十分な情報を提供し、指針を理解できるようにする。
②個々の自主性と多様性を尊重する。


 この二つの条件を満たすだけで、実に多くの問題が氷解すると思う。
 スポーツであれ、会社であれ、組織の方針を理解して自分で発送しながらプレーするほうが、はるかに応用がきく動きができるだろう。これが先ほど述べた「敬意」の中身なんだろう。
 もう一つ付け加えていえば、「絶対に勝たねばならない」とか「失敗はゆるされない」といった考えが、人をコントロールしたがる方向に向かわせる要因かなと思う。とにかく勝ち組にならなければ生きていけないような社会ではないことが前提条件になりますね。・・・

 
 

 

 

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2018年5月22日 (火)

60回目 まわりはみんなのっぺらぼう! その1

60回目 まわりはみんなのっぺらぼう! その1
 -コミュニケーション回避社会ー

<電車の中で>

 2017年10月23日、前の晩台風21号が通過した朝のこと。私は南海本線貝塚駅から大阪の難波へ向かいます。TVで正常運行していることを確認し、家を出たのですが、駅に着くと、その間に不通になっていた。
 こういう事故の場合、駅のアナウンスはだいたい要領を得ない。というか、この日は「ただ今不通です」という貼り紙をしているだけ。何の説明もない。しかたなく駅員に問い合わせると「めどが立たない」の一点張り。間違えてもよいから、いつごろ運転再開になりそうかくらい教えてほしいといつも思うのですが、答えてくれない。これでは待とうか、引き返そうか、判断しようがない。と思って周りを見渡すと、不思議な光景を見た!

 駅に着いた際から何か違和感があったのですが、まず人が改札の前に大勢溜まっているのにもかかわらず、異様に静である。よく見ればみんなスマホの画面を見ている。多くの人は、駅からの情報を期待せず、スマホで検索しているのだ!
 しばらくして、運転が再開されたのだが、その後違和感は増すばかり・・・再開直後は、各駅停車だけの運行でしたが、私は来た電車に何とか乗れた。駅に停車する度にそれまでずっと待たされていた人が乗ってくる。当たり前ですがすぐに満員になる。そうなると駅で待ってる人は乗れなくなる。
 満員といっても、もう少し奥の方に詰めれば乗れるのに・・・ドアの近くの人は詰めようとする気配もないし、積み残されそうな人も「もう少し詰めてください」とは言わない・・・

 以前は、そうしたやりとりが見られたのだが、不思議で仕方がない・・・自主的な気配りとか、人にお願いするといったコミュニケーションがなく、とっても静かである。大阪でこうならば、東京ではもっと皆おとなしいだろうと思った瞬間、そういえばそういう光景をみたなあーと腑におちた!!!

  それは、東北大震災の際、海外メデイアが「災害時の日本人の冷2_3
静さは賞賛に値する」と報道した右図のような光景!確かに多くの人はスマホを見ている!私の体験とそっくりなので雰囲気がよくわかる!とにかく異様に静かなんですよ。

 これを「日本人はすばらしい!」と自画自賛する向きもあります。たしかにわめいたり騒いだり扇動するような行動がないのは、ほめられてよい。ただこの種の報道で誤解を生みがちなのが、日本人のマナーの良さを賞賛するあまり、災害地で犯罪も全く起きてないような印象を与えるのは、実情に反しているということ。
 ただし、ここで問題にしたいのは、この点ではなく、「コミュニケーション不在」のほうです。この言い方も実は偏向している。災害時には水や食べ物を分け合う等、普段以上に助け合いが行われたのも事実です。この二面性を踏まえながら考えないといけません。

<若者と同調圧力>

 今どきの若者は、「目立つ」ことをとても恐れるそうです。それは「いじめ」の標的になる可能性を意味するから。少々孤立するだけなら、その人間のキャラクターといえるとは思うのですが、今の時代は、孤立していると嫌がらせを受け続けることになるようで、それはつらいですね。
 結果として、空気を読みながら、自己主張せずに自分の役割を演じることが求められる。これを同調圧力としてストレスに感じる人間もいるだろうし、根っから上手に生きていける人間もいるでしょう。
 こういう社会(「学級」がその典型でしょうね。)を外から見ると、いさかいのない、うまくいってる社会に見えるでしょう。特に管理する側からはとても都合がよい。(学級の場合は先生ですね。)
 でも考えると恐ろしい。自己主張をしないことに慣れてしまうと自分の意見を持つことがなくなる。人の言うとおりに流されている方が楽だという考えになってしまう。

 実際この傾向は調査によって実証されている。
以下のデータは2016年8月「高校生の生活と意識に関する調査報告書」によっています。これは、日本・米国・中国・韓国の高校生の調査を比較したものです。詳しくは検索してご覧ください。
 この結果で、日本の高校生に顕著なのは、「自己肯定感」の低さ。例えばポジテイブな項目について、「自分の希望はいつかかなうと思う」「私は人並みの能力がある」については肯定的な回答が4か国で一番低い。涙ぐましいと思うのは、「友達に求めるもっとも大事なこと」については「思いやりがあること」を選んだ割合が四か国で圧倒的に多い。

 ここで思い浮かぶのは、他人のは反対してまで自分の意見を言おうという気概を持てず、「嫌われる」ことにおびえ、自分を疎外しないで欲しいと周りの友人に求める姿です。

 社会学者の宮台真司氏は、自己肯定感が低いと、「損得勘定だけにより」振る舞うことになる。この傾向は親や先生とのデイスコミュニケーションに結びつくことがわかっているそうです。

 30年ほど前に若者だった私には違和感だらけです。なんでこんな社会になってしまったのでしょう??

<共感覚とコミュニケーション>

 もう少し宮台氏の説明を私なりに噛み砕いて詳しく述べてみます。

昔は社会に統一した価値観が存在したので、他人の事を自分の問題としてとらえる「共感覚」が存在していたが、コミュニテイーが崩壊し、個人が孤立すると、「きっと誰かがどこかで自分だけが得するようにうまいことやってるに違いない」という疑心暗鬼がうまれる。そうなるとコミュニケーションは成立しないし、コミュニケーションしようという意識もなくなる。
 
 電車の中の光景はその段階のお話であるのに対して、震災時に水を分け合ったお話というのは、自分も他人も困っているという「共感覚」が助け合いに結びついたという事例であり、実は正反対の意識だと言えますね。

<京都大学の立て看板撤去のお話>

 京大名物であった、通り沿いの「立て看板」が全て撤去されたそうです。今の社会そのままの出来事やなあと思い、やれやれと思いました。
 私も1回生の折、高校の同期生と後輩の受験生のために応援看板を立てた。当時の漫画キャラクターの「タブチくん」がホームランを打ってる絵をかいて「たまには入ることもある」と文字をいれた。聞くところによれば、「こんな看板もあります」とニュースで紹介されたらしい。
 当時はこんなおとなしい看板だけではなく、特定の教授や学校側を糾弾するような看板であふれていた。今回撤去前の写真を見ると、そのような物騒な看板は影をひそめ、サークルの勧誘や、最も激しいものでも「原発再稼働反対」程度のものである。1_2
 これらは「京都市景観条例」に違反するという名目で撤去されたそうです。その是非はともかく、違和感があるのは、学生の抵抗はほとんどなかったようだという事。記事によるとある団体の学生は「大学側の公認が取り消されると困るので自主的に撤去した」とか。とにかく自分たちだけが孤立するのは困るので粛々と体制に従うということですねえ。聞き分けのよい学生が多いわけです。権力側には無駄な抵抗をしないことはある意味「賢い」とも言えますが、なんとなく寂しい・・・

次回はそうした「若者の葛藤」について書かせていただきます。

 
 

 

 
 

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2015年3月27日 (金)

45回目 素顔のままで

45回目 素顔のままで
     -「普通」のありがたさー

<司馬遼太郎が22歳の自分にあてた手紙>
 

 「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」司馬遼太郎は22歳の時(これは終戦の年です)の思いです。「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いたと述べておられます。
 上記の言葉を1991年に文化功労者の受賞記者会見の際に述べました。勇気ある言葉ですね。(今なら古賀茂明氏や桑田佳祐氏のようにやたらバッシングされたでしょう。)なぜなら,そう言い放つことは、戦争で亡くなった方たちが「無駄な死」であったと言ってる話でもあるからです。氏もそんなことは承知の上で、それを差し引いて余るほど、自分の体験してきた戦争の論理が「馬鹿らしかった」と言いたかったのでしょう。だからこそ、この言葉はとても重い。
 生の声を聴きたい方は、YOUTUBE「知の巨人たち 第4回 140726」(https://www.youtube.com/watch?v=iRgG-piMnp0)をご覧ください。案の定、視聴者の書き込み欄には批判的な投稿がありまして、「司馬は単なる“知れもの”に過ぎない。こんな輩を保守派などと思ってはいけない。」などと書かれております。
 「今の日本の姿があるのは、戦争で命を落とした先人のおかげである。」という見方は否定できないし、ガンジーが欧米に立ち向かった日本の姿勢に影響を受けたというのも事実です。でもその裏にとんでもない愚かな行為が無数にあったことも事実ですね。
 自分に誇りを持ちたい気持ちもわかるし、自分のやったことが無駄だったと思いたくない気持ちもよくわかる。ただそれにとらわれて、周りを見ない態度は客観的に見て愚かですね。ましてや反省しようとする態度が即「反日」などと非難するのは、それこそが反日なんだけど・・「反省が足りない態度」はほかにもよく見かけます。

<なぜかその場しのぎがまかり通る>

 例えば、A首相が、 「福島第一原発の放射能漏れは完全にコントロールされている。」とか「福島の復興は着々と進んでいる。」と堂々と表明する態度。私も聞いた瞬間、耳を疑いました。こういった言葉を平気で言えるということは何を意味するのか?これは、聞いてる人がそれを鵜呑みにし、真実を確認することはないと確信していると考えているか、あるいは「自分に報告した人間がそういっているから」という言い訳を考えているかどちらかですね。
 市民の意識がが高くて、「こんな不誠実な発言をしたら市民が黙っていない」という環境があれば、こんなことにはならないと思いますが、そうでないのはとても残念です。今の日本では「神様がみてるよ」という言葉は死語なのでしょうね。「はったり」を使ってでも、他より優れて見せたい、というのは素顔に自信がないということでしょうか?なぜ自然体でいられないのでしょう?

<「普通」に価値観を見出す・・マイルドヤンキー・・>

 私の知人が名言をつぶやきました。 「『普通の人々』はいるけど『普通の人』はいないのよね・・」
 『普通の人々』を構成する個人はみな個性を持っている。いろんな物事に対していろんな指向をもっている。『普通の人』はその全体を平均化してとらえた結果であり、個性のばらつきを捨象してしまっています。なので『普通の人』は概念上だけの存在です。
 ここでは「普通」の価値についてお話しようと思っていますが、個性や多様性をもった集合体としての「普通」です。他人と差異があることを否定するわけではありません。

 「普通」に価値を見出している人々として「マイルドヤンキー」がいます。彼らは以下のような特性をもつ人々です。

・地元で行動する。(半径5Km以内という人もいます)
・小中学時代からの友人とずっと付き合い続ける
・「絆」「家族」「仲間」という言葉が好き。


 なんとなく顔が想像できますね。いいかえれば、 「自分の身近に幸せを見出して生活している人たち」です。幸福度指数の高い北欧の人々は同じような価値観を持っているということを23回目にお話しました。このような社会は包摂度の高い社会でもあります。
 おそらく彼らの同級生が全国的に有名になれば、彼らは手放しで応援するでしょうし、もし外へ出てチャレンジしたが、失敗して返ってきたとしても、彼らは優しく迎えるでしょう。仕事にあぶれた人物に知人の職場を紹介するかもしれません。このような「普通の人々」が分厚い層として存在するほど、住みやすい社会になる。かれらは仲間を蹴落としてでも一番になろうという指向はもっていないと思います。
 1970年頃は「一億総中流の時代」といわれ、これに近い意識を持った人が多かった。これに対して「上昇志向のなさ」と批判的な見方もできたわけですが、(かつての私もそうだった・・)今のように格差が拡大し、「承認されない人たち」が孤立する現実を見ると、当時の状況のありがたさを実感しますね。

<Just the Way You are>

 ビリージョエルのこのタイトルの曲は「素顔のままで」と訳されています。もっと素直に訳すと「ありのままに」ですね。
 以下は本日のTV番組のタイトルです。
「地球イチバン」「超絶凄ワザ」「奇跡体験アンビリーバボー」「ニッポン絶景街道」
 「ありのまま」に価値を見出す人にとっては、こういうタイトルを目にすると「うざい」としか言いようがない!「奇跡」とか「絶景」という言葉は「ここぞ!」という時に使ってほしいものです。必要以上にはったりを利かすのは「たたき売り」の常套手段であり、却って自分を貶めているのにね。そうでなければ、見る人の目を低く評価しているかどちらかです。
 「自分の素顔をありのままに見る」ことをしないと、どんどんこうなっちまいますね。だから「空から日本を見てみよう」といった素直なタイトルの番組を見ると微笑んでしまいます。

 こんな私はひねくれものなのでしょうか????
 

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2015年3月 4日 (水)

44回目 「お任せします」という奴ほど後で文句を言う!

44回目 「お任せします」という奴ほど後で文句を言う!
     -日本人と「ルール」のしっくりいかない関係ー

<「自己責任論」に対する違和感>

 2015年1月に発生したイスラム国による日本人人質事件は、悲劇的な結末となりました。TVで「彼らはビジネスが目的だから、身代金を得るのが唯一の目的だ」とコメントしていた多くのコメンテーターは懺悔していただきたいと思いますが、もうひとつ気になったのは例の「自己責任論」です。同様の事件があるたびに聞こえてくる「国に迷惑をかけやがって!」という「自己責任論」は欧米の人たちにとっては、奇異に写り、「日本人はなんて冷たいのだろう」と感じるそうな。
 私も同感です。彼らは「失敗」を犯したかもしれないが「ルール」を破ったわけではない。その意味で罪はない。たとえば親はいい年をした子供が自分の意思で道路を歩くことを認めます。(当たり前の話ですが・・)「自分の責任で気を付けて歩くように」と認めるわけですね。結果、飛び出してきた車にはねられたとしましょう。その時親は「あんな危ない道を歩くからお前が悪い!俺は知らん!」というのでしょうか?
 特に欧米人にとって、「自由」は犯すべからざるルールらしい。イスラム教の預言者を風刺した漫画や、北朝鮮の指導者を揶揄した映画は、出来の良しあしにかかわらず、当事者から攻撃されればされるほど、国を挙げて擁護する。
 一見これは全体主義的に見えます。全体主義はかつて日本人の傾向であり、これに対して欧米人は個人主義的だと言われますが、どうもそう単純な話ではなさそうですね。

 
<欧米の人たちのほうがルールに従順?>

 もう少し例を挙げます。日本の政局ではよく「○○おろし」とか言って、政党が自分たちが選んだ党首を辞めさせようとする動きが起こります。でもアメリカでは自分たちの選んだ大統領の人気がなくなることはあっても、辞めさせようとはしません。
 次はスポーツの世界の話。ソチオリンピックのフィギュアスケートでは韓国ではキム・ヨナの、日本では浅田真央の、採点が不公平だと、かまびすしい報道合戦が巻き起こりました。一方、サッカーW杯で起こった、みなさんご存知の「マラドーナの神の手」といわれるプレーは、明らかにハンドの反則でしたが、試合後に「無効試合だ!」とか「提訴する!」といった動きは生じませんでした。(もちろん直後に抗議はありましたが。)これは「主審の判定は絶対である」というルールが厳格に守られているからです。これは「権威に弱い」ということでしょうか?日本人が「ルールに従えない」のでしょうか?

<「お任せします」という奴ほど後で文句を言う!>
 

  これは我々、設計者がお客様と打ち合わせするときの格言です。かなりの確率で真実です。
 なぜそうなるかは、明白。我々がたとえばお客様の家を設計する際、まず、お客様の希望を聞き、敷地の立地条件を見ます。それをもとに、この家はどういうコンセプトで設計しようか方針を立て、お客様に提示します。これによって方向が決まります。それは例えば「徹底的に主婦が動きやすい家」かもしれないし「機能性よりもデザインコンセプトを重視する家」かもしれません。ですから、ここはお客さんに、完全に理解してほしいところなので、方法を尽くして説明します。これでこの家を設計するための「ルール」が決まるわけです。なのでお客さんが妥協してほしくないところです。それがこちらに遠慮してか、邪魔くさいのか、「お任せします」といわれると、困ります。あとでボタンのかけ違いが発生する可能性が高くなります。

<主張するところと従うところ>

 つまり「ルール」を自分たちがつくったという意識があれば、それに従うのは当然だと考えるということですね。
 とりわけフランス人は「自由」にこだわるらしい。これは、フランス革命を通じて、彼らが血を流しながら勝ち取った権利だからです。
 また、アメリカは独立を勝ち取った際、「自由」と「平等」を実現するために権力を委ねる者たちが守るべきルールを「独立憲章」という形でまとめました。(これが近代憲法のルーツです。)
 あるいは、デンマークでは、高い税金の配分を自分たちで決めるため、市民参加により、政策が徹底的に議論されます。結果、「民主主義の質の高い国ランキング」で世界一位の国となりました。(23回目に詳しく書きました。)
 「日本人は議論の仕方を知らない」とはよく言われる話ですが、もう少し正確に言うと「議論を通じて、自分たちが同意できる地点を見つける方法を知らない」ということなのでしょう。そもそも統治における根本のルールである民主主義的「憲法」を自ら決議したことはありませんし、今の状況を見ると、とても「民主主義的な議論を経て憲法を決定し、皆がそれに従う」なんてできそうにありません。ましてや、先ほどの「○○おろし」の場合は自分たちが選出したという事実を否定するわけですから、何をかいわんや!ですね。

<日本の歴史から>

 この「社会性の欠如」は、「国の成り立ち」と関係あるんじゃないかと思っています。

 まずは、誰かが言ってましたが、「そもそも日本は温暖な気候のおかげで、食糧生産の余剰が生じ、自活が可能だったため、政治力にたよる必要がなかった。」すなわち社会のルールをつくらずとも、人に頼らず暮して行けた。「支配」はあくまで「お上」が強制的に行うものであり、政治に対してはあくまで受動的であったという特性があります。
 あるいは宗教の違いも影響してるかもしれません。「キリスト教」と「仏教」で一番異なる点は「キリスト教は救いの宗教」であるのに対して「仏教は悟りの宗教」であるということです。すなわち、キリスト教では「救い」が得られるかどうかは、「最後の審判」において神が決定します。逆らうことはできません。でも個人ではどういう善行を積めば救われるかはわからないので、皆で聖職者に教えを乞うことになります。
 一方仏教では自分一人で修業することによって「悟り」が得られます。宗派はありますが、むしろ何もかも捨てて一人で修業をしろ!というのが根本的な教えです。

  明治以降、近代国家としては国家のルールが必要になりましたが、共同体としての「社会契約」をすることもなく、ルールがなぜ必要なのか理解する手続きもなく、今に至っているわけですね。

<無視できないルール・・「手打ち」>

 よいか悪いかは別として、西欧社会は「ルール」によって、国際社会を維持してきた。多くの民族が、国境を隔ててひしめき合う状態では、そうやってかろうじて平和を維持できたわけですね。ルールを破るときは戦争で決着をつけるわけですが、「負けたほうは屈服する。」というのもルールですね。そこで「手打ち」をしてチャラにするということが便宜上、行われます。それが知恵なわけですね。
 だから別に勝ったほうが「正しい」とは限らない。しかし、このルールが、遵守されなければ大混乱に陥ります。インデイアンが「アメリカ大陸を返せ!」とかメスチーソが「破壊されたインカやマヤを返せ!」というのも正当な主張でしょうが、そんなこと今言ってもしかたがない。
 サンフランシスコ平和条約も同じこと。「広島・長崎の原爆投下は人道上ゆるせない。」「靖国神社に参拝することは何らはばかる必要はない!」というのも正当性がないとは思いませんが、それを国際社会に向かって主張するとしたら、「手打ち」を理解していないと言わざるを得ませんね。

<日本が自ら「ルール」を作る必要な時代が来た>

 敗戦後の復興・成長時代は、今まで述べた日本人の特性にはふさわしい時代だったんじゃないかと思います。お互いを気遣わなくても、個人個人が同じ方向を向いて利益を拡大すれば、全体の利益につながるという時代でした。多少一人が傲慢に利益を囲い込んでも、「成長」が落ちこぼれをすくい上げることができた。
 ここから先は、このブログで何度も述べてきましたが、今は成熟期を迎え、限られたパイをみんなで分かちあう必要のある時代となりました。成長に頼らずとも皆が生きていけるためのルールを自ら作ってそれを守らないといけない。日本の歴史上初めて自らが自らを律する必要があるという転換期を迎えたといっても過言ではありません。
 にもかかわらず、自分たちで議論をして道理のある理念を作れそうには見えません。本当に困ったことですねえ。

<「イスラム国」の逆を発想する>

 こうした民主主義の未成熟は、「意思」を行使する手段を持った組織に完全につけこまれている。「電力会社」とか「マスコミ」とか「政府」とか「官僚」とか。
 「正しい」ことを「正しい」という人は封じ込められる。たとえば「放射能は完全にコントロールされている」といった「不合理」がなぜかまかりとおる。
 本来これらは、世論が正常に機能していれば、防ぐことができます。「こんな論理は国民が許さないだろう」という市民社会における民度がプレッシャーにならないといけない。

 再度「イスラム国」のお話。テロリストが、「恐怖」によって、空気を支配しようとするのとは、逆のベクトルをもった「正当な論理に向かうプレッシャー」が醸成されねばなりません。でないと自分たちの首がどんどん絞められていきます。

 その意味で<逆テロリズム>を!!

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2014年9月10日 (水)

39回目 「自分のふがいなさを嘆く」自分達へ

39回目 「自分のふがいなさを嘆く」自分達へ
      ーすべてを投げ出したくなる時ー

<理研CDB副センター長笹井氏自殺の報道から>  

 2014年STAP細胞問題に絡み小保方氏の上司である笹井氏が自殺した。この報道におけるコメントは大体以下のような内容でした。

曰く「ノーベル賞候補でもあった氏の自殺は科学界にとって損失である。」
曰く「アベノミクスの第三の矢の目玉の一つである再生医療の推進にとって痛手である」
曰く「自殺してまで隠す必要のあることがあったのか」
曰く「やるべきことを投げ出して周囲に迷惑をかけるのは無責任」
曰く「研究の能力は優れているのに身の回りの問題の処理はできなかったのか。精神的に弱かったのだろう。」

 無責任なコメントですね・・・なぜ自殺までするまでに至ったのかについての本人の気持ちを考えると全く的外れです。餌食をこしらえて叩くのが得意なマスコミの方たちにはわからないでしょう。でもこの報道に触れた人の中には、氏の気持ちが痛いほどわかる人達もいたはずです。それは同じ気持ちを体験したことのある人達です。

 こっそり言いますが、私もそのひとりなんです。・・・

<すべてを投げ出したくなる時>

  初めに断言しておきますが、私は自殺する(できる?)人間では決してありません。ただつい最近「自殺する人はこういう気持ちになるのだ」という体験をしました。

 「四十にして惑わず」、「五十にして天命を知る」というわけにはいかず、50を過ぎてますます悩みは深くなる。最近公私ともによくつまづく。(この辺のことは後で詳しく述べます。)

 まず母親の認知症の介護の件で神経をつかう。そのせいでもないと思うのですが、個人的なトラブルを生じてしまい、その対応に迫られ、地獄にいるような気分でした。

 7月29日の午後6時頃。きっかけは小さな話です。上記のような気分がさらにミスを引き起こす。パソコンのファイル操作を誤ってソフトが立ち上がらなくなってしまった。

 その瞬間頭が真っ白になり、「もう全部投げ出しちゃおう!」という気持ちになった。それはある意味「誘惑的な気分」であり、この気分のままなら、屋上から飛び降りることもできると明確に実感した。

 最初に言ったように私はそれを実行するような人間ではありません。1、2分じっとしてると、その気分は去りました。

 思えば、笹井氏は、その気分をずっと持続しながら、自殺の準備をし、遺書を書いたわけですね。たぶん丸一日は要したでしょう。それを考えるといたたまれなくなります。

<「心の理論(Theory of Mind)」の欠如>

 私がそういう気分になったのはパソコン操作のミスがきっかけでしたが、おなじような最後の拠りどころとなる糸を切るようなきっかけが笹井氏にもあったのだろうと思います。

 ここからは想像の域を出ない話です。私もつらい時は、家族に救いを見出したくなる時があります。そんな救いの糸をNHKスペシャルが断ち切ったんじゃないの?STAP細胞とは関係のない、小保方さんとの噂話のような放送を流したそうですね。あるいは「メールを暴露された」という仲間の裏切りにたいする失望がきっかけだったかもしれません。

 どちらにしても、そうなれば、自己の社会的重要性なんか本人にとっては関係のない話です。だから上記のようなコメントは全く的外れなわけ。そういう思慮のなさをマスコミは反省しないのでしょうか?してませんね・・・

 「心の理論」とは認知心理学で「他者の心を推測できる能力」のことです。脳学者の澤口俊之氏「あぶない脳」(ちくま新書)の中で、「心の理論」を育む環境と体験の不足が人間性の喪失の原因を生み出している、と警告しています。これはマスコミにも言えそうですね。

<自分のふがいなさを嘆く>

 さて、私のふがいなさの話です。いろんなことがうまく進まないのはなぜか?つらつら考えてみました。

・まさに「智に働けば角が立つ。」
 50歳も過ぎると、それまで得た経験や知識が結びついていろんな物事が見えてきます。これは上記「あぶない脳」では「結晶性知能」と呼ばれ生物学的には「高齢者が地域社会等の組織に知識を与えることに進化的意味がある」らしい。現実的にはこの「知能」は実社会には生かされず、行き場がなくなって、現実とのギャップの深さにはがゆさを感じる。「やればできる」と実行すれば軋轢を生じる。

・自己意識の想像通りに脳と体が働かない。
 世の中には「やればできる」人ももちろんいる。そういう人達はそれなりに築き上げた立場や資質を持っているわけですね。それらが欠如したまま不器用に「やればできる」と思って実行すると結果に決して結びつかない。

<「自己」じゃなくて「脳と体」のせいですよ。きっと!>

 私の場合で言うと意見や説明の「話し方」が下手なんじゃないかと思う。頭の中ではまるでステイーブジョブスのようにプレゼンテーションしてるつもりなのですが、実際は聞く人の心に響いてないのでは?と感じる。意見の内容には自信があるんですが。私にジャパネットたかたの前社長のような人の心をつかめる話法があれば、もっと物事がうまくいくだろうにと嘆きます。

 このブログでは、自意識と「脳内現象+肉体」の機能は別物だろうという話をしてきました。そういう前提に立てば「他人を殺した人」「うつ病などの精神疾患をもつ人」に対する捉え方は変わってくるというお話をしてきました。(10回目、33回目、34回目、35回目等の内容です。)これは、私のような精神疾患まで行かない人間にとっても同じことが言えるわけですね。

 体もトレーニングで鍛えられる部分とできない部分がある。田中将大投手の怪我もそうで、筋肉は鍛えられるが靭帯は無理らしい。だから生まれつき靭帯の弱い人は努力しても投手にはなれません。「脳を鍛える」というような本もよく見かけますが、多分それには限界があって「欠落している部分」は補えないだろうと思います。そのような脳の機能に依存する部分についてはあきらめるしかない。それよりもそんな自分とどう付き合えばよいかを自覚する方向に頭を切り替えないと。

 私はある人から「そういう状況のときには頑張らないで!」というアドバイスをうけてそのことにやっと気づきました。だから「自分がふがいないと嘆く」人達には、「やればできる。」「夢は必ずかなう。」と無理やり思い込まずに、うまく自分と付き合いましょう!と声をかけたいと思います。心から!

<いまのところ五里霧中。やれやれ>

 そもそもこのブログはメインタイトル「建築にまつわるエトセトラ」が示すように、自己の設計事務所のプロモーションのために始めました。7回目以降、そういう八方美人的なスタンスに嫌気がさしたので「読めるもんなら読んでみろ!」と、思いをぶつけるような文章になりました。次の転機は21回目以降。成熟社会への変革の必要性に目覚め、経済や社会についてこうあるべきと示唆するような文章が多くなりました。さて平成26年8月、いろいろあって今回のお話で分かるように、「むやみに強気なのはまずい」と悟り、心の様態が(意図的に変えたのではなく)変わってしまいました。さてこのブログは次回以降どこに向かうのだろう?

 ここまで自分の弱さをさらけ出していいのだろうか?と思いながら、この文章を長い間アップする気にならなかった。でも今はどちらかというと「つらい人」の気持ちがよくわかります。もしこの文章を読んで「こんな人もいるんだ」と共感して気が楽になってくれる人がいるといいな、と思いながらアップします。世の中には物事を声高に主張するフレーズが多い中、こんなのもあってよいかな?
 例によって今、一番共感する中島みゆきさんの歌詞で終わりたいと思います。

 「バクです」(中島みゆき)

 バクです。バクです。
 今の今からバクになる。
 バクです。バクです。
 バクになることにしたんです。

 
 
 あんたの悪い夢を喰っちまいます。
 あんたの怖い夢を喰っちまいます。
 あんたのつらい夢を喰っちまいます。
 あんたの泣いた夢を喰っちまいます。

 バクは全く平気なんです。
 痛くもかゆくもないんです。
 腹いっぱいになりすぎたなら
 ふわりふわりと浮きそうだ。
 それからバクは夢を見るんだ
 それからバクは夢を見るんだ
 笑ってるあんたの夢を見る

 <中略>

 バクの上に夢よ降り積め
 あんたの捨てたい夢よ降れ
 バクはひとりで喰い続けてる
 バクはひとりで喰い続けてる
 笑ってるあんたの夢を見るまで
 

 

 

 

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2014年8月 8日 (金)

38回目 サッカー日本代表の生きる道

38回目 サッカー日本代表の生きる道
     ー日本人のアイデンテイテイーを考えるー

<パレスチナ紛争のニュースを聞いて>

 パレスチナとイスラエルがまたもめています。互いに攻撃の応酬を続けている。半世紀以上も戦争を断続的に繰り返し、多くの人々が死に続けている。フッと「この執念は少なくとも今の日本人には持てないな。」と感じました。太平洋戦争で日本が戦ったのが4年間だったことを考えると、とてつもなく長期間、憎悪を持続しています。このしつこさと言っていいか、パワーといっていいかよくわからないのですが、我々の理解を超えてますよね。
 現在の日本人にとってはかつて戦争を始めるパワーがあったことさえ、想像できなくなってきました。

<日本における戦争への道程>

 前回、戦争中に「勇ましい言葉」が多くの悲劇をもたらしたこと、同じような言葉が今でも繰り返されることの危険性をお話しました。その前の戦争に至る過程においても、今の時代と驚くほど符合することが多いということを知りました。(ということは「戦争から学んでいない」と言えると思うのですが。)「ドキュメント 太平洋戦争への道(半藤一利著)」より引用します。

  「ヨーロッパの戦場では、ドイツ軍の快進撃だけがあり、明日にでも英本土上陸作戦が敢行されるのではないかと思われる。だから”バスに乗り遅れるな”の声は海軍部門で高唱されるようになっている。」
 「(外相の答弁)「ただわれわれの毅然たる態度のみが戦争を避けうるであろう。」


 なにかTPPや集団的自衛権の議論で同じような言葉を聞いたような気がします。
山本五十六は、戦力を分析した上でシュミレーションを行い、対米戦争に勝ち目はないことを立証して最後まで戦争を回避しようとしましたが、上記の「空気」を変えることはできませんでした。本当に必要なのはこういった「緻密さ」ですね。

<ワールドカップブラジル大会を見て>

 サッカーは戦争じゃないけど、「戦術」「体力」「テクニック」が必要という事で多くの共通点がある。前回もお話ししましたが、日本のサッカーは着実に進歩しています。「テクニック」の面では遜色ありません。あくまでボール扱いという意味ですが、昔はこの点で徹底的に劣っていました。2002年の日韓W杯で世界と戦えるレベルに達したと思いますが、当時よりも格段に進歩しています。
 2006年のドイツ大会は今回と同じような結果でした。(一次リーグ敗退)ジーコ監督は「日本人はフィジカルで劣る」と言ってチームを去りました。「そんなことが本番までわからなかったのか?」という反応もありましたが、テストマッチではなく、「本番における体力というか執念」が劣っていたわけですね。
 2010年の南アフリカ大会の際は、守備的な戦術をとることによって結果として「体力の差」が出にくい戦い方をしました。これが一次リーグ突破に結びついた。サッカーという競技は、「戦術」により他の部分をカバーできるところが面白い。でもこの時の戦術はサッカーファンとしてはとても不満でした。
 そして今回のブラジル大会。この4年で香川や本田といったワールドクラスの選手が育った結果、攻撃的な戦術をとることができた。見ていてずっと面白かった。方向性は間違っていない。ただ、みなさん感じたと思いますが、さきほどから出てきている「体力」(肉食獣的な能力といってもよいかと思いますが・・)でかなわなかったし、最初の中東戦争の話ではないですが、この点でアジアはヨーロッパやアフリカにはとてもかなわないな~と感じた方は多いと思います。(それがすべてだとは思いませんが)貧困から這い上がって来た選手とはサッカーにとりくむ目の色が違うんだと指摘する人もいます。さてどうすればよいのでしょう??

<君はミュンヘンオリンピックの男子バレーボールチームを知っているか?>

 1972年のミュンヘンオリンピックで松平康隆監督が率いる男子バレーボールチームは、金メダルを獲得した。この快挙はなぜ可能だったか?バレーボールはサッカーよりも身長や体力がモノを言う競技です。これを意識した上の「戦術」を考えたわけですね。
 垂直方向の「高さ」ではなく、「水平方向の移動」や「タイミングをずらす」ことにより身長の差を克服することを考えました。これは「A・B・Cのパターンを持ったクイック」とか「時間差攻撃」というそれまでなかった戦術に結実しました。それだけではなく「フライングレシーブ」「天井サーブ」といった、日本人のすばしこさやアイデアを生かした戦法により、相手を幻惑させました。見ていてもわくわくした。
 ここで挙げた「奇策」ばかりではなく、「選手をスターにまつりあげる」「バレーボール人気を盛り上げる」といったあらゆる面からの総合戦術が実を結んだ結果でした。これは「ミュンヘンへの道」というアニメに描かれているのですが、何とこのアニメは、現実と同時進行するという形態をとりました。これも注目を引くための「戦術だ」ったわけです。
 こういう努力をサッカーでもやってほしいですね!!

<サッカー日本代表の進む道>

 今回優勝したドイツチームはバスケットボールのようなパターン化した戦術を用いたという。もともと「体力や忍耐力」に定評のあったドイツチームに「戦術」が加わることにより鬼に金棒状態たっだわけ。日本チームがこれに追いつくには、さらに上回る「戦術」が求められます。
①「体力」で勝負するのではなく「かわす」ことを考えましょう。柔道には「柔よく剛を制す」という言葉がありますよね。体力も必要な時にとっておくことを考えましょう。
②最後の一瞬を決めるのはやはり体力や執念です。よく「決定力がない」という人がいますが、これは違う。ブラジルの試合を見ていただくとわかりますが、決定的なシュートを何本も外している。彼らの強さは、それ以上にチャンスを作れることです。今回正直言ってボール支配率が高くても、チャンスは少なかった。そのための「戦術」に欠けていた。これは反省すべきです。

<日本人のアイデンテイテイー>

 思い描いているのは、サッカー代表だけでない日本人のアイデンテイテイーに関してです。「体力」や「戦力」ではなく「戦術」や「テクニック」で勝負できないかという話です。
 内田樹氏によれば、西洋の学問を自国語で学習できるのはほぼ日本語だけだそうです。言われてみればそうかもしれません。かつて中国文化を取り入れるにあたって表意文字である「漢字」と表音文字である「かな」をどちらも使うことにしたのは、日本の歴史上最高の「戦術」のひとつですね。福沢諭吉らは表意文字を駆使して「政治」「思想」「哲学」といった翻訳造語を生み出した。造語では対応できなくなっても表音文字でそのまま表現できる。これによって英語をマスターしなくても学問ができ、「和魂洋才」が保持できました。
 あるいは戦後の吉田茂(人間的にはあまりよいイメージではないのですが)は安全保障はアメリカに任せ、アジア情勢の変化により、再軍備を求められても、これを拒否しながら経済復興に専念するという「戦術」をとりました。
 こういった「構想」と「戦術」が今の日本には欠如しているような気がしませんか?「構想」(目的)があって初めて「戦術」(手段)が建てられるのですが、どうも一貫した構想・思想が感じられません。
 ひとつは、人々の考え方や姿勢が多様になりすぎて「一貫した思想」により物事を決定するという事が不可能に近いということがありますね。従って「こうあるべき」という思想は追いやられ、「決定できるように決定する」という便宜主義になってしまいます。「社会が理屈のある結論に達することの困難さ」についてはこのブログでお話してきました。
 でも私たちはここで例を挙げたように、「知恵」により、アイデンテイテイーを守ってきました。太平洋戦争は大失敗でしたが、そのあとは同じく「知恵」により復活してきた。
 水野和夫氏によれば、今は資本主義が行き詰まり、新たな体制への移行期にあたる「長い21世紀」の途中らしい。社会的にも変革が必要な時期にあることは何度もこの場でお話ししてきました。
 「日本はうまくやってる!」「日本には一杯食わされるな!」と思わせるような戦術をたてるのは、かしこい日本人の得意技のような気がするのですが、なぜできないのだろう?政治の世界は難しいかもしれないけれど、「サッカー」の世界ならできるんじゃないかな??

 

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2014年3月14日 (金)

32回目 あなたにもっとユーモアを!

■H26年3月14日

32回目 あなたにもっとユーモアを!
~YOU MORE HUMOUR~

<お笑い番組と「ユーモア」>

 
最近「お笑い番組」を全く見ません。別に何か主義主張があって、そうしてるのでは全くないし、他の人が見るのを否定する気もありません。ただ見る気がしないというか頭が拒否反応を起こす。なぜそうなったんだろう??
 かくいう私も、昔は
「明石家電子台」から「探偵!ナイトスクープ」まで、大好きなお笑い番組がありました。特に「探偵!ナイトスクープ」は「これ以上のTV番組はない!」と思ってたほど夢中になってた。今「全国アホバカ分布図」を初めて見たとしても、面白いと思うでしょう。この番組を見なくなった理由とお笑い番組見る気がしない理由は多分密接に関係していると思います。
 まずきっかけは
「探偵!ナイトスクープ-アホの遺伝子」という番組のプロデューサー(松本修氏)が書いた本を読んだことだと思う。この本の基調にあるのは「いかにアホなことをして人に受けるか」という考えに基づいて、この番組がどうやって成功したかを自画自賛することだった。そうか「笑わせるための演出」だったのだな・・と考えると嫌になってきた。でも局長が上岡龍太郎氏だった頃はそれだけではない何かがあった!
 
「全国アホバカ分布図」の場合は、まず「アホという地域とバカという地域の境界線を探ると、その間にタワケという言葉を使う地域があることが分かったので、アホとタワケの境界線を調べた」というのがまず第一歩でした。「それならは全国のアホバカにあたる言葉と、その境界線を調べてみよう」と発展した。そうして視聴者の協力により全国アホバカ分布図が完成した。すると、東北と九州といった、かけ離れた地域で同じ言葉が使われていることが視覚化された。この事実は、日本文化が都であった京都を中心に同心円が広がる形で文化が伝播したという説の証明であることが判明しました。
 もうひとつ私が感銘をうけたのは
「淀川の対岸まで紙飛行機を飛ばせますか?」という質問に真剣に取り組んだ話です。どうなったと思いますか?私は「無駄なことを!だいたい川に平行に吹く風に流されて対岸まで届くはずない!アホか!」と思いました。でも事実は逆でした。まさにその風を利用することで可能だったのです。そのためには、リリースポイントを高くすることが必要とわかり、最後はクレーンを導入しました「一見できそうにないこともやってみれば可能性はある!」ことを目の当たりにし、思わずTVの前で快哉を叫んでしまいました!!
 アホバカ分布図の場合は「この調査を全国に広げたらどうなるか?」という発想が必要だっただろうし、紙飛行機の場合には「とにかくいっぺんやってみよう」という飛躍が必要だったはず。これが「思ってもみない」結果を生み出した。「受け狙い」の場合には予定調和が必要ですから、このような番組は決してできなかっただろうと思います。多分そのポイントで上岡龍太郎氏は重要な役割をしていたのだと想像します。
 このへんに「ユーモア」の本質がありそうです。

<日本人と「ユーモア」>

 「ツービート」や「ざ・ぼんち」の全盛期だった1980~82年の「漫才ブーム」は「予定調和的」「定型的」な笑いのパターンの宝庫でした。観客は「受ける」ことを前提に見てましたから、漫才師が登場しただけで大爆笑になるような世界だった。このような場を否定するつもりはありません。なんの弊害もないし。(強いて言えば芸人の質が低下するということくらいか?)「お笑い番組が大好き」という叔母がいますが、77歳でいまでも農作業を一人前にこなしています。きつい水ナス栽培作業を終えて、夜にお笑い番組を見るのはストレス解消にとても良いと思います。感覚的」な笑いはとても健康的だと思います。 
 たぶん私の場合は体のストレスより心のストレスがたまってるのでしょうか。この種の笑いでは、あとに何も残らない虚しさがあります。時間の無駄だと感じてしまいます。かけらでもいいから「虚像」ではなく「真実」が欲しいなと思うわけ。べつにいい恰好をしようとしてるのではありませんが、笑う時も「理性」に訴えてほしい
 明治初期に来日し、日本文化を研究したイギリス人のバジル・チェンバレンは著書の中で「日本人の笑いは、英国人のユーモアに見られる隠された涙、自己批判、というものが欠けている。(中略)日本人の笑いは、古代ローマのお祭り騒ぎを連想させる。野卑な冗談、無礼な駄洒落、悪質なあてこすり、騒々しい馬鹿笑い」とこき下ろしました。多分これは五割方、文化の不理解によるもので、あと五割は、ストレス解消のための笑いを冷たい目で見たからでしょう。でも日本人にユーモアのセンスが決して欠けていないことは、「ユーモア」精神が第一に要求される「イグノーベル賞」を多数受賞していることで証明されています。

<イグノーベル賞と「ユーモア」>        

Photo_2  例えば鈴木松美氏は2002年に犬語の翻訳機「バウリンガル」によりこの賞を受賞しています。 面白いことに受賞部門は「平和賞」。とはいえ、この章の場合「受賞部門」の枠はなくて、受賞者を決めてからそれにふさわしい受賞名を決めるとのこと。面白いですね。また2007年に山本麻由氏がウシの排泄物からバニラの香り成分を抽出した研究により「化学賞」を受賞して以来、2013年まで日本人が連続受賞しています。
 この章の受賞のための公式基準は「まず人を笑わせ、そして考えさせること」です。では何を考えさせるのか?志村幸雄氏著「笑う科学・イグノーベル賞」(PHPサイエンスワールド新書)によれば、
①理にかなっている
②アイデアが卓抜
③目の付けどころがよい
④常識にとらわれない
⑤真理をついている
⑥些細なことを解明する
⑦誰も相手にしなかった問題に光を当てる
⑧集中力を発揮して執拗に取り組む
⑨対象テーマが非科学的であることを立証する
⑩興味本位のテーマだが一応筋道を立てて解き明かす。

 「ユーモア」の本質をうまく言い当てていると思ったので列挙しました。「ユーモア」は「真実をウイットを用いて柔らかく伝えること」と言えるかもしれません。

<「ユーモア」のある時・ない時>

 話を整理します。「笑い」には「感覚的な笑い」と「理性的な笑い」がありますが、「ユーモア」は後者にあたるものです。では「ユーモア」がないとどうなるか?何の役に立つのか?思考実験スタート!
 ここはとある音楽雑誌の編集室。次号の目玉は歴代のアーテイストのランキング付けですが、Rさんはローリングストーンズ、Bさんはビートルズが1位だと主張して譲らない。自分自身の音楽観をかけた議論が沸騰寸前。ヒットチャートの成績、コンテンツの売り上げ、テクニック、等数値による比較は拮抗しています。正直二人とも疲れてきています。さてどう決着したものか?そこに編集長がやってきて事情を理解して言いました。「石でカブトムシをどついたら、死んじゃうからやっぱローリングストーンズの勝ち!」・・・さて二人はどう反応するか?
Rさん:「編集長!そんな話をしてるんとちゃいますよー」
Bさん:「まあ一理あるからいいっかーもう疲れたしー」

なんとか決着がつきそうです。(とそんなにうまくいくとは限りませんが)
これは上の「⑨対象テーマが非科学的であることを立証する」が近いような気がします。要は全く異なる視点を持ち込むことによって二人の目線を同じ方向にひきつけてるわけ。そのバカバカしさによって、自分たちの主張を続ける価値について再考させる効果があったと考えられます。結果妥協が成立する可能性が出てきました。

<「ユーモア」と議論>

 「笑い」はそもそも争い事をおさめる手打ちの儀式として発生したらしい。(
コンラート・ローレンツ「攻撃」より)以降「ユーモア」は「友好のためのテクニック」として発達したという面があります。
 イギリスでは伝統的に「ユーモア」は資質として重んじられ、議会の討論においても駆使される。
チャーチル首相ブレア首相も達人であったらしい。

 
ブレア首相の演説:「イギリスが抱えている問題は3つある。・・・教育と・・・教育と教育だ」 
 演説が始まった時の緊張した空気を想像すると思わず吹き出してしまいますね。

 こういうのは日本の政治家は徹底的にダメですね。自分(たち)の主張を繰り返す、あるいは相手(の人たち)を非難ばかり。そこに
「妥協」による創造的な結論はあり得ない。その結果「多数決」だけが決定の手段しかなり得ないという、レベルの低さ。上に立つ者が手本となる正しい議論の方法を示してこそ国民に広く行き渡ると思うのですが・・・・とにかくここから何とかしなければ参加主義による本当の民主主義ははるか彼方の存在です。2010年に亡くなった法社会学者小室直樹氏は生前「日本人にはまだ自らの憲法を書けない」と語っていたそうです。

 最後に我らが(?)小泉首相の国会答弁:
(イラク戦争の際、「イラクで大量破壊兵器が見つからない状況で米国を支持したことに対してどう責任をとるのか?」とただされて。)
 「いや、私は出ると思いますよ。フセインの死体が出ないからと言ってフセインはいなかったことになるんですか?」
 この答弁に対する社会学者宮台真司氏の感想:
 まるでブラックジョーク!ジョークを前ふりしてから本題を話すのかと思ったら、それが本題だった!(笑)

 はあー
 

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2013年12月26日 (木)

28回目 「パブロフの犬」を疑え!

■H25年12月26日

28回目 「パブロフの犬」を疑え!
~私達は「意志」を生かせていない

<あなたは操られるのがお好きですか?> 
 

 数年前、娘が大学受験を控えていた夏休みの事、立命館大学のオープンキャンパスに付き合った。そこで目の当たりにした大学の光景には非常な違和感を覚えた。
①キャンパスがあまりに清潔。大学を非難する看板などは一切見当たらない。(私が学生の頃はどの大学も窓はポスターをはがした糊の跡だらけだった)
②夏の酷暑の中、学生たちが「大学のために」働いているのは、昔の感覚では考えられない。(大人には反発するものだという認識があった)プレゼンテーションする大学生の話が上手すぎる!
③説明が本当ならば、大学・教師・生徒が一丸となって、大学のランクを上げようと努力している。そのためには先生も評価を挙げなければならない。(大変そう!)等々

 「実はこの日のために皆が演技をしているのです」と言ってくれた方が信じられるのにと思ったが、どうも現実らしい。なぜ学生はこんなに「管理しやすく」なったのだろう?その時は「時代も変わったもんだ」くらいに思っていた。
 

 動物行動学者であるコンラート・ローレンツ「文明化した人間の八つの大罪」(思索社)のなかで、現在の人間における「本能」行動が、本来なら種を維持するための行動であるのに、逆に生物システムにとって克服しがたい障害をもたらしつつあることを指摘している。
 八つのうち一つが「教化されやすさ」です。別な言い方をすると「パブロフの犬になるな!」という警告です。全体主義の国家にとってもそうであるのと同様に、資本主義の企業家にとっても人間が画一的でコントロールしやすいことは望ましい。だから今の大学生にも気をつけるようにと言っておきます。
 人間は「不安・不快に弱く、なるべく避けようとする」。ここを上手に刺激されると、宗教における狂信と同じで、単純化された教義により、心理的に支配されてしまう。「流行」もよく似たものですね。
 ポイントは「教義はなるべく単純な方が効果的に浸透する」ということ。人間は進化の結果「自意識を持って思考できる」「その結果高度な社会の仕組みを構成できる」という能力を得たにもかかわらず、物事をよく理解した人の説明は複雑すぎて「大衆」には受け入れられない。(この点はこのブログでも何回か指摘してきました。)
 結果として、「大衆」が受け入れ可能な方向へと「淘汰」が進んでしまう。人間が得た高い能力である「意志」が社会としては生きてこない。驚くのはローレンツが1973年に同じ指摘をしているという事。やっぱ人間は「性懲りがない」のか?

<「パブロフの犬」実験の後日譚> 

 パブロフに師事していた神経学者のリデル氏は検証実験として、まず犬にメトロノームが加速されると唾液を分泌するように条件づけた。その後「犬を支持台からはずしてしまったら、どんなことがおこるだろう?」と考えた。(実はパブロフの犬の実験では、「条件反射」を確実に起こさせるため、犬を固定して唾液以外は使えぬようにしていたのです!)犬を放してやったら何が起こったか!メトロノームが加速されないのを見て、「跳んで行ってネトロノームを鼻で押し、さかんに尻尾を振って、激しく唾液を分泌しながら、メトロノームを加速しようとした!」つまり「メトロノームが加速したので条件反射により唾液を分泌した」というより「犬は『メトロノームが餌の原因だ』という仮説を作り上げていた。支持台に拘束されていた時は『唾液を分泌する』という手段で餌乞いをしていただけ」ということです。ローレンツの言いたいことは「『パブロフの犬』でさえ条件反射が行動の唯一の要素ではない。本当はもっと複雑な話を単純化しているだけ。ましてや人間はもっと知性を発揮せよ!」ということです。
 パブロフ氏は怒って「この話を人に漏らすな!」とリデル氏に命じたとのこと・・・・

<忘れ去られる教え「つらい一週間のあとの楽しい休日」> 

 ローレンツが憂慮することのもう一つは「感性の衰退」です。原始時代においては「快・不快の欲望に従う行動」は理にかなっていた。大型動物をつかまえた時は腹いっぱい食べておく必要があったし、無駄なエネルギーを消費しないためにだらだらしておく必要もあった。
 同じメカニズムが今日の文明生活のもとでは壊滅的な機能錯誤をもたらす。近代人は快楽を求め、不快を避けるあまり、「喜び」を得るために努力することをしなくなる傾向にある「今日たえず増大しつつある不快に対する不寛容性は、自然な起伏を人工的にならされた平原に変える。(中略)要するにそれは、死のような倦怠を生み出すのである。」

ローレンツはこういった流れに対してどうしたらよいと考えているか。それは今の人間で十分対応可能だと言う。
 
「国家をどう統治するか、敵対する二つの民族、二つのイデオロギーの協同をどう確立させていくか、というわれわれの問題は、(中略)探究や想像の力によって解かれるべきなのです。」

<私達は生命のメカニズムとの折り合いをどうつければよいだろう> 

 以上のような準備思考をもとに、前回宿題にしていた難問を考えたいと思います。ローレンツのお話から得られることは「私たちは自分の意志で平衡状態を見出す必要がある。」ということです。その平衡状態をどこに見出すか?
 前回は「社会の包摂度を高めることが不安の解消につながり、苦難に対するもうひとつの対処法となる」ということを提示しました。これは例えば遺伝病においても、リスクを限りなく0にするというよりも人間共通に存在するリスクは、運命として捉え、病気になった時は社会が対処するという考えです。
 一方、医学者の
中村祐輔氏は著書「遺伝子で診断する」(PHP新書)の中で遺伝子診断を批判する人に対して、さまざまな問題は認めながら「あなたは、癌患者、とくに若い癌患者が癌で苦しみ、亡くなっていく姿を一度でも目にしたことがありますか?」「癌患者の苦しみを知らない人が、無責任にしたり顔でこのような意見を述べるのを耳にするたびに私の血圧は上昇します。」と書いておられます。重い言葉だと思います。

<社会的に「便宜的な」考え方> 

 社会システムを成り立たせるという意味で割り切った考え方もある。それは、リスクの最小化を図ろうとすれば、「性行為」と「生殖行為」を分離して、全部人工授精にすればよいという考えです。実際高齢出産の際に行われている方法です。
 人工受精卵を検査し、染色体異常のないものだけを子宮に戻す。そうすれば、前回述べた出生前診断のように中絶手術によるリスクもなくなる。もちろんこれは費用は社会が負担する前提です。あり得る話ですね。
 先ほどのローレンツの言葉を借りれば、これは不快に対する行き過ぎた不寛容になるのだろうか?

 一般の人でも平均すると一人当たり10個以上の重い常染色体劣性遺伝病の遺伝子異常を持っているという。「劣性」の場合は両親とも異常でなければ発病しないわけで、遺伝情報30億個のうちの10個ですから、ほんとに巨大なルーレットを回すようなものです。人類は長い年月、この確率論と付き合ってきたわけですね。でも上記のような方法で、染色体異常の子供を減らしていったとして、将来人間にどのような変化が現れるのだろう?良くなるなら可能性はありますね。楽天的に考えれば、これは「人間の意志」による進化となりうるでしょうか?

 この先は考えてもわからないので、とりあえず結論を出しておきます。

①「苦痛」を伴う病気は科学の力でリスクを最小にする努力を行う。(これは上記の人工授精も含めた話)
②「不快」程度であれば、あえてリスクを0にしようとはせず、社会の包摂度を高めて対応する。

<死にたいときに死ねたらよい?> 

ただ「便宜的に割り切る」ことを進めていくと実は様々な問題が待ち構えている。例えば中絶胎児の臓器は臓器移植にとってよい供給源です。それならば「臓器を売るために中絶する」というのは割り切ってよい話だろうか?
 「脳死」による臓器移植も便宜的なものですね。なにしろまだ動いている心臓を取り出すのですから。

 私の奥さんは、「年取って子供に迷惑かけたくないので、死にたい時に死ねるようにするべきだ」という考えの持ち主です。社会的コストという意味ではとても「便宜的」な話ですね。不慮の死となるよりも準備をして死ねるというのも魅力的です。(悪用される可能性はいっぱいありますが・・)現在積極的安楽死(といっても不治の病だけしか認められませんが)は数か国でしか認められていません。私はどちらかというと、「苦しみ」があってこその「喜び」だと思うのですが、先述の中村氏には叱られそうです。あなたはどう思いますか?

まずなによりもこういったことを理性的に決めれる意志を持った社会を作ることが何よりも先ですね・・・・
 


 

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2013年10月18日 (金)

25回目 身近じゃないけど困った人々

■H25年10月18日

25回目 身近じゃないけど困った人々
      ~TVで見かけ
る人々に向かってぼやく

<最近の「そこまで言って委員会」にぼやく>
 (あえて「たかじんの」をつけなかったのは、やしきたかじんが出演しておれば、こうはなっていないのではと思うからです。)
 この番組は一週間で唯一、「ながら」はせずにじっと見る事にしている番組です。この番組を見始めてから(その頃はあまりネットに親しんでなかったこともあり、)巷で流されているニュースを眺めるだけでは上っ面だけをなでてるだけで、背景は見えてないということに気付かされました。それからはこの番組で議論されるまではニュースに対しての判断を保留するようになった。また異端とされる識者を呼んで話をきくと、世の中の別の真実がみえてきた。その最たる例が武田邦彦氏をブレイクさせたことですね。氏はこのブログでも何度も登場いたします。(13~15回目「僕が武田邦彦氏に拍手をする理由」等等)あとロバートゲラー氏、小田晋氏、上杉隆氏等も同じく、核心にせまるお話をされて私も刺激を受けました。それは出演者にとっても同じで、その刺激が出演者の知性によって咀嚼され(あるいは思いっきり否定され)ることにより、視聴者の腑にストンと落ちるというのが、この番組の魅力だと思っています。
 ところが最近は、単なる出演者の主張の場になっていて
、「困ったなあ、面白くないなあ」というのが私の感想です。この頃多いパターンが、一回の中でいろんな話題をピックアップして議論をするというもの。この方法では深い議論は出来ません。(話題が多いほうが視聴率をかせげるのかなあ?)結果として出演者の個性やイデオロギーが表に出るだけ。イデオロギーを持つのは自由です。ただ物事をイデオロギーではなく、客観的な事実の指摘に対する理解力と想像力(それは思わぬ結論に至ることもある)によって把握する事により、新しい世界観がうまれる。議論の結論はそうやって導かれるべきですよね。この委員会ではそういう方向を望みます。「私は左派なので憲法改正は反対です」というだけの主張ではなにも進展しないわけ。
 その意味で
「困った人やなあ」と思うのは(あえて名前を挙げさせていただきますが)金美齢氏ですねえ。氏は大衆に迎合しない意見を明確に言いますし、気概のある方だとは思いますが、科学者や経済学者が理屈を説明すると、「私には理解できない」とあきらめます。(正直な方ではありますね。)物事は理屈で判断して欲しいのです。その一方「総理大臣にふさわしいのは私だ」と主張されるのは、もし本当になれば市民にとっては困ったものです。彼女に櫻井よしこが加われば、最強軍団。方向は見え見えで、もう番組を見る必要もありません。
 
宮崎哲也氏山口もえ氏はいつも物事を冷静に見ておられます。このふたりが抜けちゃうともう、単にうるさい集団になってしまうでしょう。

<そして安倍総理・・・・>
 この金美齢氏が崇拝するのが安倍総理。総理のことを「困った人」と思うのは現在多数派じゃないかも知れませんが、一定数存在します。理由があるのです。例えば
①国民主権国家における憲法の定義を理解していない
 *これについてはhttp://www.youtube.com/watch?v=G9_lN5S121kに詳しい
②IOC総会における福島第一原発の汚染水が「アンダー・コントロール」と発言した件
③水俣条約採択会議の開会記念式典に寄せたビデオメッセージの中「日本は水銀による被害を克服した」と述べた件。
④「2050年までに世界の温室効果ガスの排出量を50%削減することに責任を持つ」と発言した件
 *②③④は最近の話ですね。いろいろコメントされてるのでここでは詳しくふれません。ただこれらを見ていると、かつて鳩山総理が退任した後、「総理大臣というのは裸の王様だ。回りの人間は都合の良い事しか言わない。」と述べていた事を思い出します。(他人のせいにするなよ!)
 ここではよく安倍総理が口にする「愛国心」について述べるのがわかりやすいかと思います。「愛国心」は総理が教育基本法に取り入れ、憲法改正案にも「愛国心」に基づく責務を盛り込もうとしています。上記②と③にも共通した話なのですが、国民一人一人は様々な事情をかかえながら生きている。その立場に立つと国が不条理をしている話もあるわけです。それらを無視して、ワンサイズのお仕着せをするのが妥当か?ここで浜矩子氏が、とある講演で語った話を思い出します。
 世界的なテノール歌手であるホセ・カレーラ氏はバルセロナ出身のカタロニア人。(カタロニアはスペインからの独立志向の高い民族です。)彼がスペインという国にどういう思いを持ってるかというと、「自分が、カタロニア人であることのアイデンテイテイーと人権をスペインという国から認められれば認められるほど、自分のスペインに対する帰属意識は高まる」と語りました。
 「愛国心」も同じですよね。ほとんどの日本人がサッカーの日本代表がたたかうときに「愛国心」を感じるのは「日本人の一人として応援する事を誰もが尊重し合い、認め合えるから」です。だから「愛国心」は「自分が日本国から承認されている」と感じた時に持てるものであり、いろんな事情でそう思えない人達は必ず存在します。それを強要するのは問題です。
 安倍総理は立つ位置を少し間違えているのだと思います。彼のようなスタンスを「権威主義」といいます
。「自分がリーダーシップを発揮して」とか「日本が世界のリーダーとして」とかいうセリフをよく聞きます。そもそも「リーダーシップ」という言葉は権威を持つ人自信が使うのは不自然ですよね。回りの人が「あの人にはリーダーシップを感じる」というのが正しい用法だと思います。ただ確かに多くの人達は「ヒーロー願望」を持っていて、そう言う人達にはふさわしい人物かもしれません。ただ思うにそれは利益を分配できている間だけのヒーローではないかな?と想像します。
 でも私はもうそういう政治はいらないと言いたい
!「国はあなたが頑張ることをなるべく邪魔しません」「そのために何をどうしたら良いかはあなたも社会に参加して決めて下さい」「でもどうしようもなくなった時は助けますよ」と言って欲しい!それなら「愛国心」は自然に芽生える!そういう立場を「参加主義」といいます。これが成熟社会(成長しない社会)において必要な政治スタンスだと私は切に思います。

<逆に最近テレビで見た「ナイスコメント」!>
 タイガースファンとして有名な経済学者の国定浩一氏は「村上春樹氏がノーベル賞を受賞していたら経済効果はいかほどですか?」と聞かれて「文化・芸術の価値を金に換算するのはやめましょ!」とさらりと言ってのけた。ナイス!!

 
 

 

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2013年10月16日 (水)

24回目 身近にいるいる困った人々

■H25年10月16日

24回目 身近にいるいる困った人々
      ~口うるさい老人になるため
の第一歩~

 何度も繰り返して言いますが、私が生きて行く上で望むのは「ストレスのない社会」と「栄養のある野菜」だけです。前者の方は自分だけでは如何ともしがたいのですが、何とかしたいと日々ジタバタしております。

<駅で見かける困った人達>
 
マナーの悪い人々は数多く見かけますが、まず私のターゲットになるのは、「傘の持ち方を知らない人々」
 ほら、目の前の男性が先端を後ろに傘をわしづかみにして、しかも元気よくその手を振りながら歩いています。階段なんかだと後ろを子供が歩くとちょうど目を刺しそうな高さです。「しゃあないなあ」と思いながら、後ろに忍び寄って、弁当の入っている手提げカバンを少しポンと傘に当てる!それでやっと本人は「まずい!」と思うみたいです。すかさず「こら!何するんや!おまえ傘の持ち方もわからんのか!」と声を荒げると、たいていの人は狼狽いたします。それまでおそらくそんなことを意識したことがなかったのでしょうね。恐縮して謝りはります。たぶんこれ以降は気を付けると思います。よかったね!
 その他
「空き缶を電車の中に置いていく奴」「禁煙スペースでタバコを吸う奴」等を見かけたら、怒鳴りつけましょう!(怖そうなおじさんは除いて・・)若者の場合、たいていスゴスゴと従います。今まで逆ギレされたことはありません。多分そんな注意を受けたことが無いのだと思います。そういう表情をしますから!
 最近困るのはスマホを操作しながら歩いている人ですね。前を見て無いので危なくて仕方がない。階段なんかで転ぶと他人も巻き込まれそう・・でも正面からわざとぶつかると、危ないし、スマホを落して壊しちゃうとかわいそうだし・・・現在うまい成敗方法を検討中です・・・・

<困った自転車ライダー達>
 生活道路は歩道のない対向二車線道路が多いですよね。この巾では自転車+すれ違う2台の車は納まりません。ゆえに自転車は左側を一列で走行してもらわないと困る。対向車が来る状態では自転車を追い越せないので、自転車のスピードでついていって脇をすりぬけて追い越す、という方法になります。なので自転車が右側通行したり、二列で走行していると対処のし様がない!私たちが小学生の時は「左側を一列に走れ!」というのを徹底されましたが、最近の小中学生は学校でこの教育を受けているとは思えません。ひどい状況です!なるべく通学時の自転車は避けるのですが、それだけでは無理。目に余る場合は、仕方無く怒鳴りつけます。小学生の場合この時の反応が面白い。要領の好い子はささっと逃げます。責任感のある子が残って済まなさそうに説教を聞きます。多分後者の子の方が偉くなるよね!きっと。
 それにしても自転車問題は今の日本における悪弊の縮図の様!現在自転車は歩道を走るべきか、車道を走るべきか警察が検討中だと聞きました。そんなものはどう考えても現場で判断すべきでしょう!交通量の多い生活道路で歩道があればそちらが安全かも知れないが、歩道は通学中の小学生であふれているかもしれない。そうでなくても、切り下げ部分(車が横断で切るように歩道を切り込んでる部分)がいっぱいあって、自転車では走りにくい歩道というのもいっぱい有る。だからどうするのが一番自分と歩行者と自動車にとって危なくないかその場で判断するのが一番良いのは当たり前でしょ!それを判断できるようにするのが
「教育」の役目ですわ。「教育」が機能してるのであれば、自転車の問題の95%くらいは解決すると思う。残りの5%くらいは例えば「自転車道」を作らないと解決できない場所もあるかも知れませんが。
 とにかく
「人に迷惑をかける人間」を規制するために「好い人間が好い事をすることも妨げる」規制が多すぎますよね。例えば「個人情報保護法」とか「PL法」とか。

<困った大企業の受付センター>
 「
LIXIL(リクシル)」に「住宅用玄関引き戸」のカタログを請求しました。LIXILはトステム(サッシュメーカー)とかINAX(タイルやキッチンのメーカー)等の合体したグループですが、カタログについては、グループで受付をひとつにまとめています。結果、受付対応するのは、専門知識の無いお嬢さん。電話で話しながら、ちゃんと通じるか不安だったので、どういうカタログがあるか全部読み上げてもらった上で注文しました。送られてきたのは「勝手口用引き戸」のカタログでした・・・はあ
 以前のように営業所とか、ショールームで受付してくれたらこういう間違いは絶対おこらなかったでしょうに。このメーカーについては以前キッチンを採用した時にも、設計で打合せした事が現場に伝わって無くてお客さんに迷惑をかけたことがあったので、もうこりごりです。とにかく
「経費節減」「効率化」が多くの弊害を生んでるのですが、それをセンサーできる機能に欠けてるのでしょうね。業績さえ順調であれば、現場で起こっている事は関係ないのかも知れません。
 
「パナソニック」も同様です。こちらはさらに効率化を図っていて、あらゆる問い合わせは全て同じ受付電話番号です。つまり「冷蔵庫」や「髭そり器」と「建材」「キッチン」がいっしょ。電話は音声認識になっていて、キッチンの問い合わせをしようと思うと電話口で「キッチン!」と叫ばないといけません。その認識精度が悪くて(私の発音が悪いのかもしれませんが)何度も叫ばないといけない。やっとつながったときには腹が立ってるので、ほとんどけんか腰の打ち合せになってしまいます。以前はこちらから連絡しなくてもセールスウーマン(優秀な女性が多かったです)が製品情報を持ってきてくれました。こちらもそれに答えて商品に対するニーズをお知らせしました。いまでもこうした対応をしてくれる住宅設備メーカーは知る限りでは「ヤマハ」さんだけです。分野は違いますが「トヨタ」さんなんかも携帯電話で(休みの日でも)営業マンが応対してくれるのには感心致します。(あえて会社名を伏せずに書きました。少しでもよい方向に向いてくれれば良いと願います)

<困ったお年寄り達>
 最近お年寄りにも悩まされています。とにかく人の言ってることを理解しようとしない。いくら理屈を説明しても次の会合では話はもとに戻ってしまう!これが世間話の場合は許せるが、仕事や大事な物事の決定の場合はとっても困る!具体的な話は差し障りがあるのでやめとこ・・・
 自分は若者には理解のある年寄りになろう!というより大事な事は若者にまかしちゃおう!でも礼儀をはずした奴は口うるさく叱ろう!と思う。

<イマジネーションを認めない社会>
 昔からサッカーの世界では「イマジネーション」という言葉をよく使います。味方と敵がどう動こうとしているか想像力を働かせてプレーしなさいということですね。
 殺人事件や暴力事件を見聞きすると「イマジネーションの欠如」を感じることは多い。ただその原因は「自分で考えたり工夫してもそれを認めない社会」のほうに多く存在するような気がします。先ほど述べたような自主的な判断を認めない法律、硬直した上下関係、マニュアル化した仕事等々。「考えるだけ無駄」と思ってしまったら、その先は思考停止状態。これは「考える葦」である人間が陥ってはいけない危ない袋小路です。
 「笹子トンネル崩落事故」なんかも検査員に想像力があれば防げたと思います。少しでも建築・土木の知識があれば、あんな重いコンクリート製の天井がボルトでぶらさがっているなんて、考えただけでも恐ろしい。これもマニュアル社会の落とし穴ですね。名前は忘れましたが、とある一流ホテルのマニュアルは「お客様の身になって接客する」という一文しかないとか・・・教育がちゃんとなされていればあとは現場判断でよいということですね。
 
 「困った人々」は「困った社会」より生まれる。・・・が今回の結論でしょうか。でも知らず知らずのうちに人に迷惑かけてることもあるしね。えらそうなことばっか言っててもダメなんですが、「困った人々」は次々に思い浮かびます。困ったものです。きりが無いのでこれくらいで・・・・・

 

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