2016年7月22日 (金)

54回目 「前提条件」を疑え!     

54回目 「前提条件」を疑え!
      ー循環論だけでは語れないー  
   

<「危険性の少ない」ところで地震が起こる!>

Pdf_3 上の図は2010年(東北大震災の前)における、その後30年に震度6以上の地震が発生する確率の分布を示した図です。いわゆる地震ハザードマップといわれる図ですね。防災科学技術研究所の資料ですが、こういう資料を基に自治体は、対策を立案します。
 図でおわかりのように、2011年に東北大震災が起きた地域や、先日の熊本地震の地域は、確率の低い地域でしたし、阪神大震災もそうでした。
 東京大学教授のロバート・ゲラー氏はこれはそもそも間違った理論による予想であり、地震予知は今の段階では不可能だと断言します。何が間違っKatudannsou_pdf
てるかというと、地震は、各々その際の個別の条件に基づいて発生するのであり、以前発生した場所で周期的に発生すると「だけ」考えることが誤りだとのことです
 その下の図は、確率分布図に、活断層(赤色が主要な活断層でその他は黒で示されている)を重ね合わせた図です。「内陸型の地震」は活断層が原因とされているので、分布は重なっています。これは、断層を調査すると過去数十万年にわたって何度もずれた痕跡がみられる。従って将来も地震が発生する可能性が高いという理由によります。問題はその理屈「だけ」が正しいかということです。
 素人考えでもわかるのは、
①亀裂の入った岩盤に力を加えると必ず亀裂の場所で割れる。
②割れた岩盤の両側から力をかけると必ず割れた部分が変位する。
→これらは活断層で地震が発生する理由になりますね。
 でも
③割れていない岩盤が壊れるまで力を加えると、割れている岩盤が壊れるより衝撃が大きい。
→こういう力が加わると、断層のない場所でもおおきな地震が発生する可能性がありますね。
④割れていない岩盤で、厚みが同じ場合面積が大きいほうが、小さい力で割れる。
→ということは、断層の間隔が短ければ、丈夫な地盤かもしれない。(細長くなりすぎると弱くなるでしょうけど)

 「プレート間地震」の場合、発生のメカニズムは異なります。二つのプレートの片方がもう片方に沈み込んでいて、上に乗っかっているプレートが押されることでひずみがたまり、耐え切れなくなると先端が跳ね上がるというのが定説ですが、これなら周期的に繰り返し起こると考えられそうです。でもこれは、跳ね上がる部分がゴムのように「縮む」→「跳ね上がる」を繰り返すという「前提条件」の下で成り立つ話であり、もし壊れて引っ掛かりがなくなれば、次にどこでどうなるかは、わからなくなります。状況が変化するわけですね。

以上は、以前起こったことが繰り返し起こるとだけ考えるのは間違えてるかもしれないというお話です。

<見落とされる循環もある>

 逆に「目先の変化に気をとられると、大きな循環を見落とす」場合もある。Microsoft_word_140_pdf
 右上図は、マスコミでよく見るグラフです。過去140年の日本の気温変化を示しています。通常平均気温が上昇している=温暖化が進行しているという説明に使われます。
 私が小学生の頃(1970年頃)子供用の学習雑誌に、「世界の気温は下がる傾向にあり、もうすぐ氷河期となる」と書かれていて、怖くなった記憶があります。青字は、私が書き込んだの401_3ですが、「1970年以降」を隠してみてみると、1940年~1970年にかけて、低下
傾向が見られます。その時点では、そのまま下がっていくと見ることもできますね。
 その下はずっと範囲を広げて地球の過去40万年の気温変化を示すグラフです。上の話は、右端の「A部」のごくわずかな部分を見ているだけで、全然意味のない議論だったことが解ります
 グラフをみればわかりますが、地球の気温はほぼ10万年で周期的に変化しており、今は温暖な時期にあることがわかります。
 あとこのグラフを見てわかるのは、①地球の歴史において今が最も温暖なわけではない。(誤った記述をよく見かけます。)②そのうち寒冷化に転じることが予想される。(これは本当に恐ろしい!)
 地震の周期説以上に10万年毎の気温の周期変化はメカニズムが解明されていない。従ってこちらも前提条件が漸次変化していく現象かもしれないので一概にはいえません。また地球の数十億年の変化が観測されれば、さらに異なる傾向が読み取れるかもしれないということですね。

<「わからない」ということがわからないと!>

これらは、「目先の変化にとらわれるな」という事なのですが、これらの見誤りは「正確な仕組みが解明されていない」ことに起因しています。
 例えば、「万有引力の法則により地球は太陽の周りをまわっている」ということが解明されるまでは、明日本当に太陽は東の空から上るのか、ということは経験的にしか語れなかったわけです。「いつもそうだから明日もそうなる」というレベルの判断なわけですね。言ってみれば、「地震予想は人間が万有引力の法則を知らなかった段階の知見からあまり違わない。」ということを正確に把握しておく必要があるという事です。

<経済成長に対する前提条件をどう設定するか?>

 私たちは、ある事実を前提にやるべきことを判断しています。「前提条件が変化している」ということを見落としていたり、思い込みによって、不確かな前提条件であるという事を忘れていることもある。そうすると、全く判断をを間違えていることもあり得ます。
 このことを痛感するのが「経済成長」というもののとらえ方だと思う。景気は循環するという説があり、その根拠として「在庫の循環」や「設備投資の循環」という学説があるようです。それらはそれなりに道理があるのでしょうが、今のように人口が減って必然的に全体が縮小しているということはそれらの説の根拠となる「前提条件の変化」を意味します。
 これは以前この場でお話ししたことがあるのですが、経済が成長する余地のある条件の下では、利益を再投資することで拡大再生産が可能になる。(これが「資本主義」の起源だというのがマックスウェーバーの説です。)ところが、全体が縮小しつつあるという「前提条件」のもとでは、ある集団が利益を得すぎるとその他の部分で縮小が増幅されるのが算数の結果なので、再分配することが行動原理として一番必要になりますね。

 今の政策は、この前提条件には立っていない。、「金融・財政政策によって経済を刺激すれば景気は回復し、かつてのような経済成長が可能になる」と考えている。この前提条件が誤りであるとすれば、これまで何兆円を無駄に刷ったことになるのでしょう!!これによって発生した借金についてはいったい誰が責任を取るのでしょう??気が遠くなりませんか?

<お金の話はよくわからない・・・>

 先ほど「政府がお金を刷る」という表現を使いましたが、実際的には日銀がパソコンに金額を入力するだけらしい。お金の話は本当によくわかりません。銀行がA社に100万円貸し出せば、銀行もA社も100万円の権利を持つことになるので、利息を返せるという条件さえ満たせれば、100万円が200万円の効果をもつことになるそうな。
 このへんをわかりやすく解説して欲しいと思われた方は「武田邦彦『現代のコペルニクス』#90 日本の重大問題(2)国の借金   
https://www.youtube.com/watch?v=6lDbR2VWoPw」をご覧ください。

 




 

 

 

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2015年10月 1日 (木)

49回目 この世は幻想か?

49回目 この世は幻想か?
     -万物はゆらいでいる-

<これは幻想であって欲しい!・・>

 平成27年9月18日、仕事をしながら集団的自衛権の国会審議をインターネット中継で見ていた。(正確に言うと「聞いていた」)まるで悪夢のようでしたね。これは幻想であって欲しいと思った。
 現実にはつじつまが合わないことだらけ。不条理にあふれている。そんな時、幻想願望が生まれるのでしょうか?そのせいか、「幻想」について語る人はたくさんおられます。


 社会は幻想だ、というのは、なんとなくわかる。社会制度は、歴史的ななりゆきで成立したものだし、いろんな仮定や取決めに基づいている。従って吉本隆明氏「国家は共同幻想である」というのは、そうだろうなと思います。
 あるいは、心理学者である岸田秀氏「本能が壊れた動物である人間は、現実に適合できず、幻想を必要とする。人間とは幻想する動物である」として「唯幻論」を解くのも、なんとなくわかります。よりどころとなる現実に頼らねば、脳は機能を維持できないだろうと思います。

<ホログラフィック原理>

 では、今度は物理学者の最先端の仮説ですがどう思いますか?宇宙が時間軸を持った三次元空間であるというのは幻想である。我々が存在すると思っている三次元空間は、宇宙の地平面における二次元情報が、投影された像にすぎない。」これをホログラフィック理論といいます。
 ここまでいくと、理解の範疇をはるかに超えています。では目の前に現に存在する現実はなんなんだ!と思うでしょう。でも理論的に導かれる可能性のひとつなのです。まあ、この理論には、深入りしませんし、できる能力もありません。もうすこしわかりやすいところで、我々がそこに確固として存在していると思っている実体に少し疑問がわくようなお話をいたします。

<物として認識するということ>

 私たちが個体と認識しているものはまず「見える」必要があります。でもあらゆる物質を構成している原子は、中身はほとんど真空です。原子核をソフトボールくらいの大きさとすると、電子は1.5Km離れたところに存在する。その程度にスカスカです。ではなぜモノが見えるのかというと、光を反射するからですね。光の波長は原子の数千倍ある。光は原子の中を通過できなくて、反射されるのです。
 ということは、我々の視覚的な認識は「光」の性質に依存していということ。もし光が原子の中を通過できたなら、世の中は、もやもやとした、不定型な、半透明のお化けのように見えるのでしょうね?
 さらに言えば、先ほど「真空」と表現しましたが、これは正確には「無」ではなくて、素粒子は飛びかっている。「質量」の起源といわれているヒッグス粒子は、空間に充満しているはず。もし粒子をそのまま見ることができたなら、それこそ粒子の流れこそが現実の姿です。個体の境界は明確ではなく、粒子の密度の高い部分が個体だというふうに見えるはずです。

<「ゆらぎ」が宇宙の根源である>

 インフレーション理論を唱えた佐藤勝彦氏によれば、そもそも宇宙の始まりは、真空状態におけるエネルギー密度の「ゆらぎ」だと考えられています。その結果ビッグバンが起こった。また、その直後の粒子密度の非均質性により、銀河や星が生じと言われています。わずかな密度の「ゆらぎ」が、物体を形成し、生命を誕生させるまでに至ったわけです。
 量子力学の(一見非常識な)常識では、そもそも、粒子の位置と運動を同時に特定できない。計算できるのは、粒子がそこに存在する確率だけ。素粒子を観察すると、粒子が消えたり、ないところから出てきたりするそうな。我々の存在の根源になる要素自体ゆらいでいるのですから、なにかとっても心もとないですね。
  宇宙に働く力を一つの統一した理論で説明しようとする「超弦理論」では、世界は11次元でできているそうですから、素粒子も我々に見えない次元に行ったり来たりしているのかもしれない。そうなれば、我々自体消えたり現れたりする「シュレデインガーの猫」のような存在のような気がしてきます。

<遺伝子もゆらいでいる>

 人体の生理においても「非均質性」は重要な働きをしています。例えば、受精直後の受精卵は、2分割→4分割というふうに細胞分裂しながら、機能分化していくわけですが、受精前の卵子に、方向性は無い。どちらが頭になってどちらが足になるかは、受精直後の物質濃度の勾配で決まるらしい。方向が決まれば、それ以降、順々に遺伝子のスイッチが入って行って、分化が進行するとのことです。
 そもそも遺伝子の構成自体、ゆらいでいるらしい。ヒトのゲノムに「決定版」は無い。個人個人で異なるからこそ「遺伝子鑑定」が成り立つわけです。この変化は、世代間にわたる環境への対応であったり、病気への対応であったりするだけでなく、一世代において、増殖を繰り返すことによっても変化する。
 それがまた、古典的な「進化論」で語られるような、「適者生存」のように、ある理想的な方向へ向かう変化だけではない。だからこそ「ゆらぎ」なのですが、例えば、年齢を重ねると、ミスコピーを起こしやすい配列の部分がどんどん変化して、病気になる。(その部分が短い人はその病気になりやすい。)あるいは、女性を決めるX染色体と、男性を決めるY染色体はお互いの勢力争いを常に繰り広げて常に変化をもたらしているらしい。ある遺伝子は、ある病気にはなりにくい方向に働くが、同じ遺伝子は、別の病気にはなりやすい方向に働く。そのため、その人がおかれている風土によって遺伝子も変化する。等々・・・

 「1970年代、物理学で半世紀前に起きたように、生物学でも確定性と安定性と決定論に基づく古い世界観が崩壊した。われわれはその代わりに、揺らぎと変化と予測不可能を基盤とした新しい世界観を構築する必要に迫られている。われわれの世代が解読するゲノムは、絶えず変更されている文書の一瞬をとらえたものにすぐない。」(「ゲノムが語る23の物語」マット・リトレー著 紀伊國屋書店)

<脳と体と遺伝子の三位一体説>

 では我々の存在の拠り所にすべき確固とした存在は何なのでしょう?上記の書籍には「脳と体と遺伝子は三位一体として振る舞う」と述べられています。これは、三つの要素のどれもが優位にあるわけではなく、お互いに影響を及ぼし合いながら変化する、という意味です。遺伝子でさえ絶対的な決定要因ではないのです。
 結果、私たちは大海の中を潮まかせに漂うクラゲのような存在だということですね。正直どこにたどりつくかわからない。

 ただ「脳」と「体」(個人の意志では「遺伝子」はどうにもならないが)を健全に保つためには、不安を感じたままではいけない。本来的に安定を欲求します。
 例えば、宗教もそういう欲求から生まれ、支持されているわけですね。心の拠り所が必要ということです。
 一番最初に述べた「人間は幻想を必要とする」というところに戻ってしまいました。この世は幻想か?というより幻想が必要とされる!ということです。

<幻想ではない範囲で考える>

 岸田秀氏はさらに語る。「本能が壊れた人類は、本来なら滅亡しているはずであった。(中略)そして人間は、頼れなくなった本能的行動パターンの代わりに、道徳とか礼儀とか伝統とか慣例とかのいろいろな人為的規範を作り、それらに従って生きるようになった。」

「自我というのは、いつも強調するように幻想であって、実体として存在しているわけではないので、周囲の世界に支えられなければならない。どこまでが自分か、身内か、共同体かということは誰も決めてくれないし、基本的な法則があるわけではないので、自分で決めなければならない。自分の感覚で決めるわけだから、やはり自分の奉仕や献身に対する感謝などの反応のある範囲内で、という事になってしまうのは避けがたい。」

<居場所はどこに?>

 というわけで、とりわけ社会規範の存在しない日本においては、身近な所に、生きる実感を見出すのが第一だという事であります。
 これは、このブログの中でお話ししてきたテーマと符合しますね。よしよし!(23回目あたりに詳しく述べております。)

 なんだか心の不安を駆りたてるようなお話をしてしまったのかなという気もしますが、まあ不安を持ってない人はこんな話を読まないだろうし、不安を持つ人は、みんなそうだと思えればなんとなく気楽になるかもしれません。このような話を奥さんにしようものなら、「なにゆうてんねん!目の前の現実から逃げるようなこと言うな!ちゃんと給料を稼いで来い!」と言われるのは目に見えております。なかなか身近に幸せを見出すのにも苦労しますね。というわけで、日々居場所を探す毎日です・・・・・
 

 

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2015年7月31日 (金)

48回目 私たちが生まれる前の100年間に起こったこと

48回目 私たちが生まれる前の100年間に起こったこと
      ー技術革新と経済成長の関係を探る!ー

<科学の歴史から>

 最近「宇宙論」の本を立て続けに読んでいます。これは一種の現実逃避であります。(自分に原因があることも多々ありますが)最近世の中に対する疎外感、無力感が甚だしい・・・「宇宙」にはそんな苦しみは一切存在しません。癒されます。
 どの本にも必ず登場するのは、かのアインシュタインです。ある本では、科学における宇宙に対する認識(人間原理)の歴史をたどる中に登場しました。その内容はさておき、注目したのはその「時代」です。

アインシュタインが特殊相対性理論に続き、一般相対性理論を発表したのは1915年、このときすでにブラックホールを予言し、「重力は質量によってゆがめられた時空のひずみ沿った自由落下のことである」という説を唱えました。ブラックホールの存在については、その後様々な現象の発見により裏付けられてきました。重力理論については、まだ解明されていませんが、彼の説は全く色あせていません。1915年と言えば日本は大正時代、第一次大戦が始まった直後です。氏の先進性は驚くばかりです。

②さらに量子論1913年、既に発表されています。アインシュタインはこの理論が嫌いで、量子論を揶揄した「神様はサイコロを振らない」という言葉は有名ですね。量子の運動を記述するシュレデインガー方程式は、今もミクロの世界を表記する上で有効です。

③ところがところが、この頃もちろん原子の構造についての理論はありましたが、観測による確認はされていなかった!!これは、ラザフォードの原子核崩壊の実験(1919年)や、電子顕微鏡の発明(1939年)を経て、20世紀中頃に、やっと立証されました。

 日本の長岡半太郎氏が原子模型の理論を発表したのは1904年のことですから50年おくれで立証されたわけですね。1950年頃にはDNAの二重らせん構造の発見(1953年)宇宙のビッグバン理論(1949年)といった、今の科学の基礎となる理論が、ほぼ出そろった感があります。

 では、その100年前はどんな世界だったのでしょう?年表をみると

1842年ドップラー効果
1843年熱の仕事等量(ジュール)
1859年ダーウイン「種の起源」
1865年アボガドロ数

等が出てきます。何だ!高校の物理で習った程度の知識じゃん!

 私が生まれたのは、1960年。その前夜といえる100年間はわずか三世代程度の間に科学の世界ではすさまじい技術革新があったわけです。

<世界と日本史における1850年~1950年>

 では、その間における世界はどんな時代だったか?教科書的な話はなるべく簡潔に期します。

①1850年頃
 ・1848年:フランス二月革命
 ・1853年:ペリーの浦賀来航
 ・1861年:アメリカ独立戦争
②1900年頃
 ・1904年:日露戦争
 ・1914年:第一次世界大戦
③1950年頃
 ・1939年:第二次世界大戦
 ・1945年:日本がポツダム宣言受諾

 まさに戦争の世紀だったわけですね。何のための戦争だったか?大部分は植民地を獲得することによって、自国を繁栄させようとした結果です。
 宗主国は植民地から安い原料を仕入れ、製品を植民地に買わせる、いわゆる「収奪」により経済を成長させた結果、19・20世紀には、歴史上特異な現象が起こりました。それは「個人資産の実質的増加」です。

<経済成長は幻想か?>

 (集英社新書「没落する文明」萱野稔人・神里達博著より抜粋)
 「経済史家のアンガス・マデイソンが書いた『経済統計で見る世界経済2000
2000年史』という本はとても示唆に富みます。彼はこの本の中で、一世紀から二〇世紀までの世界経済の実態を統計的に調べ、人類が経済成長というものを経験したのはたかだか1820年以降の、ごく最近のことにすぎないということを実証しました。」

 ほぼ私たちが生まれる前100年は、人類の歴史上、初めての「経済成長」を経験した時代だったのです。
 その後西暦2000年あたりまでは何とか成長し続けましたが、それ以降は、ほぼ横ばいです。それなのに、私たちは経済成長はするものだと思い込んでおり、政府も再び右肩上がりになるという前提で政策を決定し、カンフル剤を打ち続けております。これは幻想ではないのか?

<「重ね合わせられないでしょ」定理を応用すれば>

  政府は「成長戦略」として常に「イノベーション」を持ち出しますが、技術革新すれば経済が成長するというのは、どうも怪しい!        Pdf_2

 現実的には科学はどんどん進歩しているし、生産現場の効率は日進月歩です。生産効率が上がれば、経営者は利益を得るかもしれないが、失業する人間も現れる。これが人口が増加し、経済が拡大していた時代であれば失業者も救われたが、今はそうではない。逆に人口が減少していて、なお競争が激しく、苦しい状況となる。イノベーションが進んでも、モノの量がニーズを超過すれば、成長には結びつかない「重ね合わせていけない」わけです。(47回目「それは重ね合わせられないでしょ!」をお読みください)
 したがってイノベーションのレベルアップに「重ね合わせ低減係数」をかけなければ、全体の経済成長レベルにならないんじゃないか?というシュミレーションが図示するグラフであります。

 ①のイノベーションレベルについては最初に述べました。1850年から1950年までは加速度的に技術革新がなされました。その後は一定の割合で発展していると仮定します。

 ②が「重ね合わせ低減係数」の過程です。終戦により物資が欠乏した1950年からバブル崩壊までは、需要が需要を生み出す時代でした。経済は、技術進歩以上に発展したと思われますので、係数は増加します。バブル崩壊後、どんどん重ね合わせ低減係数は1以下となります。このまま人口が減り続ければ、下がり続けるかもしれません。

 ③は単純に①に②の係数をかけたグラフです。イノベーションレベルのグラフは図のように右肩が下がります。

 さて実際の日本の経済成長はどんなグラフになっているのでしょうか?GDP合計および生産年齢人口当たりGDPを図示します。似Photo
た傾向を示していると思いませんか?
 正直自分でも「おおっ!」と思うくらい③の成長レベル曲線とほとんど同じじゃん!!
 これは西暦2000年時点で重ね合わせ低減係数=1という想定であり、実は「低減」になっていない状態ですから、係数が1以下になればどんどん右肩下がりになるということになりますね。
 上記①②③のグラフはあくまで、定性的な「イメージ量」であり、定量的な話ではありません。 でもお話したいのは、ものごとの変化率を長期的に見ないと、状況を見誤るのでは、ということです。

<日本語の歴史から> 

 明治時代は1868年に始まりましたが、その頃、書き言葉は、基本的に漢文文化でした。これを、日本語として文章化しようとしたのは、夏目漱石正岡子規の努力ですね。
 司馬遼太郎によれば、誰が書いてもほぼ同じ文章を書くようになったのは、1955年頃、週刊新潮などの週刊誌が創刊された時期だという。これも私たちが生まれる前の100年間に起こったことです。それを私たちは、ごく当たり前に、以前から存在していたもののように使っている。

変化を見誤らないために>

 

 今回はいつもと少し趣を変えて、「歴史」から、今の私たちの置かれている立場を考えてみました。私たちが若いころ、成長を享受できたのは、その前の100年間の人々の努力や試行錯誤のおかげだという事がよくわかります。
 そのうえで上記のGDPグラフの意味を、言い換えれば歴史が経験してきた変化の意味を考えないと、将来の方向を見誤りますね。

 

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2015年6月26日 (金)

47回目 それは重ね合わせられないでしょ!

47回目 それは重ね合わせられないでしょ!

<あっちこっちから一度に宿題出すな!> 

 ・・と思ったことありませんか?もちろん学生時代の話です。国語と算数と英語の宿題を明日までやってこいと一度に出されても困るわけです。それぞれの先生は、個人個人の事情は考慮せずに機械的に必要な宿題を出してるだけ。したがって場合によっては不条理に重なってしまう。されど一日にできる勉強時間なんて限度がある。人によっては、家業の手伝いをしないといけない学生もいるかもしれない。容量を超えて重ね合わせることはできない!そういう条件を考慮されるべき場合がある、という話です。

<重ね合わせの原理>

 重ね合わせが可能という現象もあります。高校の物理の授業で「重ね合わせの原理」というのを習いましたね。
 「電源を複数持つ回路において、回路における電流、電圧は、それぞれの電源が単独に存在していた場合の和に等しい。」
 大雑把にいえば、電源が、それぞれ単独にある場合の電流、電圧を計算して足し算すればよいという、物理の問題を解くには便利な法則でした。

 「重ね合わせできる」のは「波」に可能な芸当です。(写真参照)Photo
よく考えると「波」というのは不思議ですね。「伝わる」のですが、物質(媒質)は移動するわけではない。各点の変位がそれぞれの足し算(重ね合わせ)になるわけです。そうして波はもう一つの波に関係なく進んでいきます。これが「粒子」だとそうはいかない。異なる方向から飛んできた粒子がぶつかると、衝突の条件によって方向がかわり、二度ともとの軌道には戻れません。光は波と粒子の両方の性質を持っているというのも物理で習いましたね。これはとてもややこしくて不思議な話なので、深入りしません。
 問題は、重ね合わせ可能であるかは、「波」の性質か「粒子」の性質かによって、変わるんだということです。

<「重ね合わせ」の見られる現象>

 現実社会でも「波の重ね合わせ」に似た現象があります。最近「丹波地方では名古屋弁に似た方言を持っている」という話を聞きました。
 かの有名な「全国アホバカ分布図」(32回目参照)は、方言が京都を中心に同心円が広がるように伝播した、ということを見事に示しました。丹波地方の方言を見てみると、「昨日」のことを→「きんのう」と言ったり、「去る」のことを→「いぬ」と言ったり、私の地元(泉州地方)とよく似た言葉使いが見られます。これはまさに上の事実を示しています。
 丹波では、さらに名古屋を中心とした、文化の波が伝わって、重ね合わせられた方言を構成しているという事ですね。

<重ね合わせ可能性は条件による>

 「文化の波」のように「大きさ」がなくて「変化」に限界がないもののなかには重ね合わせが可能なものが見られます。冒頭で述べた「宿題」の事例では、「時間量」の大きさが関係するので、宿題に必要な時間が個人が使える時間に対して「飽和」してしまえば、重ね合わせは不可能になります。もちろん、「飽和」する前にも、宿題以外に使える時間は少なくなる。
 今となっては「宿題」からは、開放されましたが、同じような「邪鬼」が時間を食いつぶしに来る!それは「役所手続きに要する作業」です!!みなさん心当たりがあるでしょう!!!
 仕事でかかわったいろんな業界の方が同じ悲鳴を上げていました。介護業界の厚生省に対する申請業務、お医者さんの健康保険の点数計算等々・・・「業界」とは関係なく「年金の確認をしろ!」とか「裁判に参加しろ!」とか!おそらくこの30年で、この種の手続きは3倍になってます。(これは建築申請手続きにおける体感値です。)
 営業的には、これらの手続きは、売り上げには結びつきません。にもかかわらず、役所の人は、これらに要する時間はゼロとしか考えていないとしか思えませんね!!!!これを莫大な損失だと認識できる政治家やお役人はいないのでしょうか????

<「時間量」の壁を消し去った分野>

 時間量の制約を飛躍的に打ち破ったのは、「電子商取引」です。IT技術は一億分の一秒単位で取引をすることを可能にしました。これは一日の時間が何倍にも長くなったことを意味します。

 近代資本主義は「拡大再生産」により、「成長」することを前提としています。でないと「投資」という行為は成立しません。「成長」するためには、経済活動が拡大するための「空間」が必要です。かつての植民地獲得競争はまさにこれが目的でした。今は戦争による領土獲得はできませんが、先進国は軒並みモノが飽和した状態にあり、成長は鈍化あるいはストップすることを強いられているのが現状です。経済学者の水野和夫氏によると、フランス、ドイツはEUを利用して「空間」を拡大したのに対して、アメリカ、イギリスは上記の技術により金融の中に成長のための「空間」を見出したとのことです。

 ただ金融空間はあくまで仮想の空間であり、拡大はどこかで行き詰ります。これがバブル崩壊という現象ですが、アメリカ、イギリスは数年ごとにバブルを清算しながら経済成長を維持するという戦略をとっている、というのが水野氏の見解です。
 かつて貧しかった国もモノの飽和が急速に進んでいるそうです。中国なんかはその意味でブラックホールのような存在という気がするのですが、それに反して同様の現象がみられるとのこと。工業における生産効率の上昇がすさまじい勢いで進んでいるからですね。
 そのうち世界全体でモノが飽和すれば、「成長」は止まる理屈ですが、そうなれば、新たな資本主義の形態を考えないといけません。

<「経済効果」のまやかし>

 現象を重ね合わせできるか、というのは構成要素にとって、波のように重ね合わせられる事なのか、粒子のように同時に存在できずに飽和すればそれ以上重ね合わせられない事なのか、という条件によるのです。この条件を無視してるなあ、と思うものの最たるものが「経済効果」です。

 最近で言えば、北陸新幹線の開通による石川県内の経済効果は約80億円と報道されていました。二次波及効果を含めると約120億円という試算がでています。(日本政策投資銀行による)
 さて、この経済効果は日本の経済拡大に寄与したのでしょうか?非常にあやしいですよね。金沢に行く人が増えた分、他の場所への旅行者は確実に減っています。
 日本旅行業協会のデータによると、日本国内の旅行者数(従業員10人以上の宿泊施設)は2008年→3億970万人、2012年→3億6000万人と増加傾向にあります。ただ旅行業者の取扱額は2008年→7.2兆円、2012年→5.9兆円と減少傾向にあります。
 日本における観光業の成長という意味では後者の数字が指標になりますね。この傾向は北陸新幹線ができたからといって2015年も大きく変わるとは思えません。さらに、在来線を利用する地元の人は料金が高くなって不便になりますし、メンテナンス費用は路線が二重になったぶん、確実に上昇します。いわゆる「経済効果」だけで新幹線をどんどん作るのは如何なものか?という話です。
 1964年、私が4歳の時、東海道新幹線が開業しました。「新幹線に乗りたい」という理由で「じゃ思い切って東京まで旅行するか!」といった人も多かった。我が家もそうでしたから。当時は今ほど娯楽のメニューもなかった時代です。「飽和」には程遠い条件でしたから、確実に「経済成長」に寄与したでしょう。
 これと同じことを「リニアモーター新幹線」に期待するのは大間違いですね!

<原子力発電所の避難計画も・・>

 2007年の中越沖地震が起きた際、柏崎刈羽原発はホットラインのある部屋のドアが地震で歪んでしまい、県庁と柏崎刈羽原発が直接連絡することができなくなった。泉田知事はこの事実を重く受け止め、再稼働するための条件の甘さを指摘しています。
  「何重もの安全」というのはとても怪しい言葉です。非常時の電源確保のために、電源車を分散して配置するという対策が謳われていますが、地震時にドライバーがそこにたどりつける保証はない。大飯原発では避難ルートが一本しかないことが問題になっていますが、何重もの安全がすべてそのルートをあてにしているならば、そのルートがふさがれば「何重も」は全く意味がないことになりますね。
 地震時にはいろんな障害が重なり合います。その際機能を果たさなければならない要素がそれによって機能不全に陥る可能性は十分あるわけです。阪神大震災の際は同時多発的に火事が発生しました。そのため、「火事の際には消防車が駆けつけてきてくれる。」という常識が通用しませんでした。重ね合わせは不可能なのです。

<モノの飽和あるいはバブル崩壊>

 私が建築設計の仕事を始めたのは1984年です。マンションの設計をする場合、エアコン用のコンセントは居間と主寝室にしか設置しませんでした。TV受け口も同様です。一家に2台TVを持つ世帯はほとんどありませんでした。これらはその後急速に普及が進み、今ではどの部屋でも設置できるようにするのが常識です。経済成長が続いたからできた、というかこの事自体が経済成長だったのです。やがてモノが飽和し、行き場を失ったカネが金融市場に流れ、バブルが崩壊し、経済の低迷が始まった。

 その後西暦2000年前後に、今まで存在しなかった「パソコン」なるものが急速に普及し、「ITバブル」と言われた時代がありました。この「ITバブル」はモノが飽和した成熟社会のモノとカネの関係をよく表した現象だったと思います。今までみんな持っていなかったパソコンが普及していったので、その分モノが売れ、一時経済が成長しました。しかしその後も日本の経済は低迷し続けた。これは、皆がパソコンあるいはネットというものを理解していく過程で、多くのモノが排除された結果ではないだろうかと思います。TVガイドとか地図とかはどんどん不要になりましたし、私は現在新聞をとらなくなりました。料理のレシピもネットを見ます。果たしてこれは経済成長という面からみてプラスでしょうかマイナスでしょうか?人が移動しなくてもよくなった分、マイナスなんじゃないかな?
 確実に事実なのは、通信会社と電力会社だけは、成長を続けているということなのですが・・・

<成熟社会を生きる>

 ではモノが飽和して経済成長しなくなれば資本主義が行き詰るのか?問題は今の資本主義が「経済成長」を前提として組み立てられていることです。これをちゃんと転換できればよいはずなんですが。というのは「経済成長」というのはこれまでの人類の歴史において19,20世紀に特異な現象なのですよ。

 「拡大再生産」しないといけないという呪縛から逃れることができれば、ゆっくり立ち止まってまわりを見回す余裕もできるんでしょうね。江戸時代なんかそうだったんじゃないでしょうか。

 そうなればきっといっぺんに出される宿題に追いまくられることもなくなるかもしれません。

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2015年4月21日 (火)

46回目 西洋的思考法の袋小路

 46回目 西洋的思考法の袋小路
       ー「全体論」へー

<西洋医学の限界>

 「免役革命」(新潟大学医学部教授 安保徹著)という本を読みました。最初のほうでは「温熱療法」や「玄米食」がガン治療に効果がある、というような話から始まったので、なんだか怪しげな本かと思ったのですが、結果、大いに納得してしまいました。
 要点は以下のようなものです。
現代医学(西洋医学)はガン、アレルギー疾患等の組織障害を伴う疾患に対しては全く無力である。基本的に対症療法でしかないので治癒力をかえって弱めてしまう。
 ガン細胞は普段でも我々の体の中で発生しているそうですが、リンパ球等よりもはるかに生命力が弱いので、簡単に撃退される。それが強度のストレス等の原因により、増殖して抑制できなくなって病気になる。ここで免役を高める治療をすることで回復が見込めるはずの場合でも、今の医学は全く無頓着に抗ガン剤を処方してしまう。これでは「症状を取り除く」ことばかり考える結果、本来の原因である体の働きを弱めてしまい、却って症状を悪化させてしまう。
 著者が主張するのは、「自律神経系」「白血球」「代謝エネルギー」の3つのシステムをとらえることにより身体のシステム全体のバランスを考える医学が必要だということですこれは対症療法を重視する西洋医学の方向性とは全く逆のベクトルをもった考え方です。
 
 西洋的思考法「抽象化」の上で「分析」することを旨とします。これを「還元主義」といいますね。ものをバラバラにして純粋な要素を取り出すことにより、原理を明らかにするという方法です。これにより、様々な事象が明らかになってきました。物体の「抽象化」により、運動方程式が導かれ、どのような物体でも、初期条件が明らかになれば、未来がすべて計算できると思われていました。
 ところが「量子」レベルに至って、この信念は崩れました。量子の「位置」と「運動量」は同時に特定できないことがわかってきました。その名も「不確定性原理」。初期条件が特定できなければ未来を計算することもできません。アインシュタインはこれが不満で、これは人間が観測する手段を持たないからにすぎない、と反論しました。これが「神はサイコロを振らない」という言葉になりました。しかしながら還元主義手法の限界はいろんな分野で現れてきています。

<遺伝子と脳細胞の研究から>

 分子生物学者の福岡伸一氏はかつてある物質を細胞内に取り込むための遺伝子を特定しました。ここまでは正しい分析的方法です。逆に、その遺伝子を持たないマウスを育てて、この遺伝子の欠如により、ある病気(糖尿病)になることで、この遺伝子の欠如と糖尿病が、必要十分な関係にあることを、実証しようとしました。ところが、待てど暮らせどマウスはぴんぴんしています。確かに特定した遺伝子の機能は損なわれていたが、別の遺伝子が、代替機能を発揮して、マウスを正常に保っていたのです。結局,病気の原因を確定することはできませんでした。

 生命というものは、総合的に補完しあいながら、働いているのであり、完全な分業で成り立っているのではないということです。結果、一つの原因では発病しないシステムが体の中に成立している。ということは、個々の部分を分析するだけでは、病気の仕組みは解明できません。同じようなことが脳細胞の研究でも発現しています。
 
 視聴覚等の刺激に対して脳のどの部分が機能を担っているかを分析することにより、脳の仕組みを解明しようという様々な研究が行われています。実験方法は飛躍的に発展し、ある刺激に対して脳のどの部分に電流が流れるかを測定することが可能です。ところが、ひとつの刺激に対して、様々な部分が反応します。ここら辺が一番主な部分かなと特定していっても、別の刺激でも反応したりする。また先ほどの例と同様に、見当をつけた部分を欠損させた脳を刺激すると、別の部分が肩代わりして反応したりする。こうしていつまでたっても、脳のしくみは解明できないというのが現状です。

<経済の仕組みが解れば苦労しない>

 経済学についても同様です。アベノミクスを推進する高橋洋一氏などは「これは、経済学で数理的に証明されている理論なので正しい」という説明をしますが、それが正解ならばとっくに景気が良くなっているはずでしょ。そんなに精密な理論があるなら、なぜ「リーマンショックが予想できなかったのか?」と問われるとおそらく答えに窮するはずです。
 なぜそうなるか。藻谷浩介氏はいつも「経済学」と「実態経済」は全く異なるのだ、と主張します。「抽象化」しないと数理化は難しいのですが、逆にどんどん実態とはかけ離れてしまうということですね。早い話が、43回目にお話したように、所得は「自由競争により能力のある人間が大きな成果を得る」ということは現実の世の中ではありえないのですが、「経済学」は自由競争を前提にした理論です。

 もうひとつ、経済や生命のようなシステムのメカニズムが解明できない理由は、要素同士が作用し合ってシステムに対して様々な「フィードバック」をもたらすことです。少しずつの変化が、ある時爆発的な変化をもたらすような作用となることもある。「恐慌」などはその例ですね。あるいは相互作用が、新たな秩序を生み出す「自己組織化」という現象も生じる。物質から「生命」が誕生したのはその例ですし、受精卵が機能分化して、様々な臓器となるのも自己組織化ですね。これらは結果を分析しても無意味な現象です。

<複雑性に取り組む姿勢>

 生命や経済のしくみといった、複雑な構造を明らかにしようとする試みのひとつが、アメリカのサンタフェ研究所の取り組みです。たとえば要素間の相互作用について、どういう初期条件を与えれば、複雑さを生じる振る舞いをするかを探っています。

 これに対して、全く逆な方向性で複雑性に取り組もうとする方法を提案しているのが、経済学者である金子勝氏と医学者である児玉龍彦氏による「逆システム学」です。これは私の理解では以下のような態度によります。

 そもそも要素からアプローチするのではなく、「全体」の動きを捉えようとする。ある変化や刺激に対して、「全体」がどういうフィードバックを引き起こすかを観察する。先ほど「脳」の例で挙げたように、実際には複雑な経路を経て、アウトプットが生じるのですが、そのひとうひとつの経路を明らかにするのではなく、結果だけを捉えることにより、全体の仕組みを(分析するのではなく)理解しようとする姿勢だと思います。

<うちの奥さんの複雑性>

 この「逆システム学」は「分析」ではなく、全体をあいまいなままとらえようとする、極めて「東洋的」な考え方のように思います。

 たとえば、私は奥さんと結婚して27年ですが、彼女を理屈で理解しようということについては放棄しております。例えば
・奥さんは電車にのるのが大嫌いです。電車のターミナルの近くに用事があるときでさえ、車で送れ!と私に申し付けます。
・私は犬を飼うなら、柴犬しかないと思っていますが、奥さんはいやだという。なぜか?柴犬の尻尾は巻いているので、お尻の穴が見えているからだそうな。(あんたが尻の穴を見せてるわけじゃないでしょうが・・)

 昔は価値観の相違により、離婚寸前まで、喧嘩をしたものです。今はなんとかおつきあいをしております。理屈ではなく、こういうことをしたら、こういう反応が返ってくる。これについては彼女にとって人格を否定するのと同じである。という、フィードバックを経験的に理解しております。こうして、理屈ではなく、経験的に彼女を理解しているわけです。多分「逆システム学」とはこういうものじゃないでしょうか。

<環境倫理学から:ベアード・キャリコットの「全体論」>

 環境という、複雑な構造に対しても同じような「東洋的な」方向性が求められています。「環境」は、時間的にも空間的にも個人のスケールを超えてる。でも、環境にどう対応するかは、そこに住む人たちが判断しないといけない。ではどうすればよいか?
 ベアード・キャリコットは対象とする環境の全体を一個の生き物としてとらえる必要があるとする「全体論」を唱えています。
 詳しくは、宮台真司氏「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」というシンポジウムにおいて、市民が環境とどう向き合えばよいかという話をした中に詳しく説明されていますので参照ください。
http://world-architects.blogspot.jp/2013/11/nationalstadium-miyadai.html
 ここで注目したいのは、ベアード・キャリコットが京都学派哲学の影響を受けているということです。私は詳しく存じませんが、京都学派は、日本の学問が手本としてきた西洋的手法に東洋的思想を融合させようとしたとのこと。そこに「全体論」が生まれるわけです。

<スペシャリストだけではどうにもならない>

 私は建築の設計の仕事をしながら、ひとつの物をまとめ上げるには、統合するための理念が必要だということを身に着けました。建築は分析だけでは成立しません。様々な条件を統合する作業です。構造設計者や設備設計者といったスペシャリストも必要ですが、彼らだけでは建築としてまとまりません。総合的に物事を判断するジェネラリストが必要です。
   ただ、世の中では何となくスペシャリストが重んじられ、本来専門外の物事を決定しています。原発問題なんかはまさにそうですね。原子炉(釜ですね)の専門家が、避難計画を審査したりしています。

<全体論へ>

 だから物事を包括的に論じられるゼネラリストが必要なのですが、単なる「物知り」だけではいけないのが難しい。また、そういう人が重視されていないところが問題ですね。
 そもそも「東洋医学」は「まじない」で「西洋医学」は「科学的」だという先入観を転換することが必要です。でなければ西洋的思考はここまで述べたように袋小路に入ってしまいますね。

 (冒頭にお話しした)「安保徹さんの本には『抗がん剤は使うな』と書いてありましたが、先生がガンになったらどうしますか?」と知り合いの内科医に質問をしました。
 先生も即断できないようでしたが、以下のような話をしてくださいました。「例えば、少し前まで不治の病気だったC型肝炎も、完全に治る薬ができています。西洋医学はダメだということは一概には言えませんね。」

 「西洋」がダメで「東洋」がよいと断言してしまうのもここで言う「西洋的思考法」になってしまいます。そうするとまた「全体」が見えなくなってしまいますね。

 *注:「東洋的」「西洋的」という言葉は本来、もっと多様な意味を持っていますが、ここでは説明のため大雑把に、「総合的」「分析的」程度の意味に使いました。念のため

 
 

 

                                          

 

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2013年5月14日 (火)

15回目<僕が武田邦彦氏に拍手をする理由>その③(最終回)

■H25年5月14日

15回目<僕が武田邦彦氏に拍手をする理由>その③(最終回)
     ー「ジェネラリスト」が求められる!ー

<アポロ13号を救った若手技術者>
 
1970年4月、3度目の月面着陸を目指して月に向かっていたアポロ13号は電気のショートによる酸素タンクの爆発により、ミッションを中断して地球へ帰還することを余儀なくされた。映画や書籍にもなってるので御存知の方も多いと思いますが、この時克服すべき様々な問題の中でとりわけ深刻だったのが、地球に到達するまでの電力の不足だった。これを解決するための責任者に任命されたのは、当時弱冠27歳だった電気技術者のジョン・アーロン本来は「電気・環境・消耗品担当」だった。実はジョンは担当以外のことにもいろいろ興味を持ち、あちこち首を突っ込んで、豊富な知識を蓄えていた。また上司もそういう彼の姿勢をちゃんと把握していた。・・ここが今回のポイントですね!彼は各分野の担当から電力ニーズを聞きだす一方、電力の残量を把握し、(でもそれでは足りない!)電力を節約するためのアイデアを出し、(例えば、飛行時間を短くするためにどうすればよいかというアイデア)飛行士を何とか帰還させるための道筋を作り上げた。
 これは彼が、一分野における
「スペシャリスト」を越えて、各分野からの要望に対して議論するだけの知識を有した「ゼネラリスト」であったから遂行できた「ナイスジョブ!」だった。お決まりのパターンではない、未経験の事業を成功させるためにはこうした人物が必要なんですね。

<行き詰まりの「岸和田丘陵地区整備事業」>
 さて一方・・、前回少しお話しした、私の関わっている「岸和田丘陵地区整備事業」のお話・・岸和田市の中山間地(ほとんどは山林・農地でしめられる)150haを「都市整備エリア(土地区画整理事業)」「農整備ゾーン(土地改良事業)」「自然活用エリア(事業手法未定)」に分け、三つのエリアを連携させて土地活用を図ろうと言うものです。と書くとすごく面白そうな話なのですが、今現在、実に通り一遍を絵に描いたような無味乾燥な中身が進行中です。なぜそうなるのか?私が参加している「農整備ゾーン(土地改良事業)」の方から見て行きます。
 今回の「土地改良事業」は国庫補助事業であり、決められた事業費負担があって国:50%、大阪府:15%、岸和田市:25%、地元住民10%です。多分お決まりのパターンで、府が国から託された事業推進役として登場しており、多分「土地改良村」の外郭団体みたいなところが造成基本計画図を描いてきていますが、これが全国一律の標準設計パターンをはんこで押したような気の入っていない図面でありまして、一目見たなり「これが国土を設計する図面か?」と目を疑いました。とにかく地形の特性を考えてない、地域の将来像に対する構想がない等等。
 この結果は体制的には無理もない話で、設計者は地元に特に思い入れがあるわけでも無く、「事業が認可される」のが目的に仕事をしているだけということ。であれば地元のことをよく知っていて、市の将来のことを一番考えているだろう「市」(この場合は農林水産課)が構想を練って、設計者に条件を出せばよいと思うのですが、多分費用負担の分担に伴う上下の関係があって、多分そういうことはしない流儀?なのでしょう。早い話が「意欲的な事業はしにくい」体制がまず出来ているわけです。
(*「多分」が多いのは決定のプロセスを地権者は知らされていないからです。)
 3つのゾーンを総合的に議論する専門家委員会もあって、有益な事例紹介やものの考え方の提示しており、地元がそれを参考に自分ら独自の考えを共有すれば、打開不可能ではありません。しかしながら、<その①>で述べたように地権者全員が(250人いる!)「ベースとなる共通の意識」をもつことはまず不可能、従って<その②>で述べたように一般の人はどうしても「周囲→感情→意見」という思考をするので、「理屈は通っていて、意欲的であるがすぐに納得できない意見」が賛同を得るのはほぼ不可能です。なので私がいくらこれを何とかこれを打開しようと意見を言っても無視されるだけなわけ。
 でも日本全国にはこれに類する成功したプロジェクトは沢山あります。例えば・・・

<石川県羽咋市農林水産課高野誠鮮氏の仕事>
 高野氏「ローマ法王に米を食べさせた男」(高野誠鮮著 講談社)です。彼1人で羽咋市神子原地区の村おこしをやってしまいました。イベントを開催し、プロモーションを行い(「神子原米」はローマ法王の献上品になることで一躍有名になった)、ブランド化を成功させ、農家を自立させました。高野氏は意思決定において会議という方法は取りませんでした。自分で責任を持ち、上司には「事後報告」という形をとりました。(理解のある上司の存在も重要でした。)彼は「ジェネラリスト」そのものだったわけです。もちろん最初はすべての農家が反対の立場でした。それを動かしたのは「構想」と「戦略」です。ここにこのシリーズの答えがあります。実はこの本を「読んでください」と岸和田市農林水産課の担当者に進呈してあって、どう実行してくれるかと期待しています。とにかく市の職員が一番「ジェネラリスト」になれる能力と立場を持っているはずなのです。「とにかく実行第一です!」と申し上げました。
 
●まとめ:どうしたら大勢の人の総意によって理屈の通った結論にたどり着けるか?
①なるべく少人数の「ゼネラリスト」がものを決定し、実行できる体制が必要です。「皆の意見を聞いてひとつにまとめる」のは不可能ですし、高いレベルの結果には結びつきません。
②彼らは皆を説得するだけの「定量的思考」による客観的で「筋の通った構想」を持たないといけません。(骨の折れる努力ですが)
③「構想」を実行するためにはすぐれた「戦略」が必要です。これによってその他大多数の人が、複雑な理屈を理解しないでも、共通の思いを持てる様に事を運ぶ必要があります。その上で始めて「総意」が形成されます。
このプロセスを得ない結論は単に空気を読んでなんとなく出来たものであり、本当の「総意」ではない!!
 以上がこのシリーズの副題に対する私の結論です。 

<武田邦彦氏はすぐれた「ジェネラリスト」>
 
2011年3月11日に福島で原子力発電所の事故が発生した直後の3月12日から武田氏は市民に向かって事故に関する情報を発信し続けました。「放射性物質は塵のようなものなので風向きに乗って移動する」「流出した放射性物質の予想量とそれに対する対策」「環境が汚染されていく過程の予想」これらのことを手に入るデータを基に計算して、政府やマスコミの情報よりずっと早くアナウンスし続けました。
 武田氏の専門は資源材料学です。原子炉が専門ではありませんが、原子力に関った経験から大つかみの事実を把握できる
「ジェネラリスト」だったわけです。「スペシャリスト」としてノーベル賞をもらえる学者ではない。(と思いますが?・・)しかし「理屈に合った客観的な結論」を得るためには「スペシャリスト」よりも「ジェネラリスト」が必要なのです。
 武田氏の
「ジェネラリスト」ぶりを示すお話を厳選して紹介し、今回のシリーズの最後を締めたいと思います。(最後までくだけた所の無い文章になっちゃったなー・・スミマセン)

①「タバコを吸うと癌になる」という表現は誇張しすぎで、「外を歩くと交通事故に合う」といってるようなものだ。として、実際どの程度危険性が増すのかを定量的に詳しく説明しています。(武田氏のホームページにはこれに関するいろいろな話が掲載されています。)

②「エコロジー幻想」(青春出版社)の中の一説「愛用品の5原則」は高校の国語教科書に取り上げられています。

③YOUTUBE「ガリレオ放談第30・31回ー油団の不思議ー」では、「油団」のしくみを解明しながら、昔のものはなぜ長持ちするか?を考えています。建築関係者には興味深く見ていただけると思います。

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2013年5月13日 (月)

14回目<僕が武田邦彦氏に拍手をする理由>その②

■H25年5月13日

14回目<僕が武田邦彦氏に拍手をする理由>その②
     ー専門家はどう振舞うべきかー

<理科系的な考え方は社会において有効か?>
 
(他にも多くの人がそうだったと思いますが・・)民主党政権が出来、鳩山首相が誕生した時、理科系出身の首相ということで、これからは打算や利害調整にとらわれない政治判断がなされるだろうと期待していた。結果は御存知のとおりで、週刊誌には「日本に理科系政治家は不向きなのでは?」という記事も見かけた。私はそうではなく、「彼ら(というのは管首相も含めて)のほうが理科系思考については落第生なのだ!」と言いたい!!彼らの思考は全く理科系とは逆で「有権者に受け入れられる」ことを先に考えていたんですね。客観的にではなく、空気を読んでから自分の態度を決めていたのでしょう。
 武田邦彦氏はこういうふうに表現しています。
「それは
「事実→解析→意見→感情」と進むのがまともで誠意ある道筋ですが、識者といわれる人の言動をみると「周囲→損得→意見→事実」となっていて、それを一般の人に言うと、一般の人が「周囲→感情→意見」になっているので受け入れやすいという識者の作戦のように見えます。」
 ちなみに武田氏が「周囲の空気を読まずに発言する」例をひとつ。
前回述べたように氏は「右より」人間なので中国のことをあまり好きではなさそうですが、「飛来するPM2.5(氏はそうではなくて通常のスモッグでは?と予想している)は巷で言うほど大騒ぎする必要は無く、有害物質ではあるが、日本に来るまで拡散するし、粒子の大きさからして濃度の高い場所でもマスクで十分対応できる」と指摘すると同時に「それより毎年飛来する黄砂(弱アルカリ性)が日本の田畑や海を豊かにしてくれている事は重要である。
」と意見しています。理科系的に判断するとはこういうことです。

<定性的な議論をやめて定量的議論を!>
 
要はものを考えるに当たって最初に用意すべき「事実→解析」のところを多くの人々はサボってるわけですね。この最初に行うべきところを数字を使って実証できるのが理科系人間の必要とされる理由だと思います。「定量」をせずに「定性」的な理屈をこねると何だって言えます。
 例えば
「太陽エネルギーは無限にある」→「従ってこれからの電力はは太陽エネルギーを主とすべきだ」
 
と言われるとなんとなく「ああそうか・・」と思ってしまいます。しかし、同じ所から「定量的に」話を始めると全く異なる展開になります。
 
(武田邦彦著「偽善エネルギー」幻冬社より抜粋)
「石油を燃やして高圧の蒸気をつくり、それで電気を起こしたり蒸気機関を動かしたりすると、そのエネルギー密度は、1㎡当り約3万キロワットです。(中略)快晴で最も太陽が高いときのエネルギー密度が、その3万分の1の1キロワットであることを考えると、石油を燃やして作った蒸気がものすごいエネルギー密度を持っていることがわかります。」
 つまり
石油の焚き火1㎡分のエネルギーを太陽電池パネル(現在効率は40%未満であるが100%エネルギーを取り出せたとしても)では3万㎡(3ヘクタール)必要なわけこうすれば太陽電池パネルは補助的にしか使えないことは明確です。TVなどではこういう基礎データを知らずに話をしている人間が実に多い。(実際、氏は佐世保市で市のエネルギーをすべて太陽光でまかなえば空地がほとんどなくなることを実証している)。

<数字を使ってウソを言う人もいるが・・・>
 例えば民主党の前原氏(2011年当時外務大臣)がTPP参加問題について以下の様な論理で発言しました。(「日本のGDPに占める第一次産業の割合は1.5%(しかない)」+「しかも農民の平均年齢は65歳である(ので将来性は見込めないにもかかわらず)」)→「1.5%を守るために98.5%を犠牲にしてよいのか?(よいわけはない)」
 この発言で「うんうん」と納得した方もおられると思います。しかしながらこれはウソでない数字を使ってウソを言う典型かと思います。ただ数字のよいところは、ウソ(もしかして無知や誤解かもしれないが)がわかる人にはすぐにわかる。それによって本人の資質・能力も明らかになるところです。
 
この発言の誤りは至るところで指摘されています。
①:GDPにおける一次産業の割合(1.5%)が日本は低いと言いたいようであるが、あれだけ農業を大事にしているアメリカでさえ1.1%で何と日本より低い。農業国のオーストラリアでも3.9%!また一次産業から派生する産業全体(農漁業+食品産業+関連流通業+飲食店)でGDP比9.6%に対して自動車を中心とする輸送機器産業では2.7%しかない!
②:農民の平均年齢が65歳ということで農業は20年もすれば消滅するというイメージを想起させたいと思われるが、あくまで頭の数の平均である。概ね若い人は「担い手」として大量生産しているが、高齢者は「自給的」に少量の生産をする。ということは一人一人の生産高を按分して平均をとれば、もっと若くなるはず。
③TPPに参加した場合に見込めるGDPの増加分は内閣府の試算で0.3兆円(GDP全体で500兆円としてわずか0.06%!)である。一方一次産業は最大0.3兆円の減少となるので一次産業の全生産高を8兆円として3.75%の減少となる。犠牲になるのはどっち?
 
むちゃくちゃですねー。ただ私も前原発言をニュースで聞いた時点で、ウソを見抜けたわけではありません。なので、物事を決める場面には、そのベースとなる情報を理解している専門家がいて、しかも一定の発言権を持っているということが必要ということですね。

<シロウトが責任を負う仕組はいっぱいある!>
 
世の中には専門家がアドバイスを行いながら、シロウトが最終決定せざるを得ない仕組みがいっぱいあります。①原子力委員会の諮問に基づく原子力政策の決定などはその典型ですし、私が関っているものでは、②「岸和田丘陵地区整備計画」という事業において、市や専門家のアドバイスにより、住民組織である役員会が物事を決定していく仕組みを地権者として経験しています。
 ①については原発事故で失敗が明らかになりましたし、②についてもお世辞にも成果が上がっているとは言えない状態です。しっかりとした専門家がいるのになぜ機能しないのか?・・・・・というのが次回のお話です。

 

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2013年5月 9日 (木)

13回目<僕が武田邦彦氏に拍手をする理由>その①

■H25年5月9日

13回目<僕が武田邦彦氏に拍手をする理由>その①
     ー理屈で武装された愛情ー

 このシリーズはあまりに真面目な話なので文章を面白く書くのはあきらめました。以下ずっとそんな調子なので、世の中のありかたを真剣に考えたい人のみお読み下さい。

   
<例えば「朱鷺(トキ)」の話>
 
武田氏は今、放鳥され野生化が期待されているトキを見て、「かわいそうだ」と言う。曰く「今の日本の自然環境のキャパシテイーではもはやトキのような大型の鳥類が生息するのは不可能だ。事実、トキは明治時代に実質的に絶滅していた。」
 「うそや
?トキが絶滅したのは、農薬が原因ではなかったの??そう教えられたはず!と思い、事実関係を調べると、何とこれは真実で「日本で化学農薬が使用されるようになったのは1950年代以降であり、その頃にはすでに20羽ほどにまで個体数を減らしていた」・・・・えええっ私の知識と違う!
 野生のトキが絶滅した理由は「農薬による環境汚染」ではなく、もっと大きな、「社会の変化そのもの」という視野で見なければいけなかったわけです。この放鳥の様子を武田氏は
「ゆがんだ現代の日本社会を象徴しているよう」と嘆きます。
 もう少し深く考えると、「現在の田畑は農薬漬けでありトキが生息できる環境ではない」というのは事実でしょうし、「トキは絶滅した」というのは既知の事実ですが、それらをなんとなくつなぎ合わせた「トキは農薬が原因で絶滅した」と間違った情報をなぜか私たちは信じさせられていたわけです。多分自然環境を保護したい人のプロパガンダとしては都合のよい言い回しだったのでしょうが、明らかに真実ではありません。たぶんトキの野生化はうまく行かず、予算の無駄使いになるでしょう。
 このような、先入観を持たない科学者の広い視野で客観的に見たときにどういう結論が導かれるかかという事実に驚かされるのが武田氏の魅力です。
 よく知られた
「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」はそういう魅力にあふれた本です。心のなかでモヤモヤしてたものが、「ああこれが真実だったんだ!」とすっきりします。(ちなみにこの本を攻撃する本も読みましたが、枝葉末節の誤りを指摘してましたが、本質はゆらいでいません)ただ氏の欠点を指摘しますと、「話を面白くしようとするサービス精神が強すぎて、しばしば勇み足をしてしまう」ことですね。そういうことをしなくても筋の通った説明だけで十分面白いのですが。ただ、結論が常識と異なる場合が多いので、読むほうもちゃんと理屈を追って行かないといけません。言葉ツラだけ追っていると、「武田の意見はころころ変わる」という批判をしてしまうことになります。(実際この手の意見はよく見かけます)
 
<筋の通ったすばらしい議論>

 その典型例が放射線被曝基準についての「とある対談」(YOUTUBE:司会は宮崎哲哉、対談相手は中村仁信 阪大名誉教授http://www.youtube.com/watch?v=b24ulh6BTM0です。
 武田氏は「1ミリシーベルト/年を守るべき」という立場」で、中村氏は「ホルシミス効果(低線量の放射線は生物にとって有益な刺激となる)を支持する立場」です。武田氏の態度は例えば福島の農業者にとっては厳しすぎるとよく批判されます。一方中村氏の主張に従えば、基準はゆるくてよいという話になるのですが、あくまで科学の最新理論を語っているわけで、いわゆる「御用学者」ではありません。是非YOUTUBEで見ていただきたいのですが、二人は極めて理屈の通った議論をしています。科学的根拠については共通認識を確認し、(武田氏もホルミシス効果については認めている)その上で、ある立場に立てば武田氏の結論になるし、別の立場から見れば中村氏の結論になるという事が議論を通じて明らかにされます。ということは何について判断を求められているかに応じて、どちらの結論を採用すべきかわかるということ。どちらが絶対的に正しいかという話ではない。
 こう言う議論を重要な決定を下す議会等でやってほしい。原発賛成・反対とか憲法9条賛成・反対とかいう議論を聞いているとそういう気がします。まずベースとなる事実認識を共有していない(実にこれが一番むずかしい!)ために議論が上スベリをしてばかり。
 先ほどのTOUTUBEのコメント欄を見ると同じ現象が見て取れる。そもそも動画をUPした本人自体が「武田は風見鶏だ」と言っている。それに対して議論を理解してコメントしている人は非難されている。合議によって物事を決めていく際には、筋道を建てた議論の方が脇に押しやられて行く傾向があります。そのうち詳しくコメントしますが、私もよくこういう立場を経験するのでよくわかる!
 なのでこのシリーズの副題を付けるとすれば「どうしたら話し合いによって理屈の通った結論にたどり着けるか??」です。

<「理不尽」による苦しみをなくそう!>
 今日の昼ごはんをカレーにしようかラーメンにしようか?という判断に理屈は必要ない。(まあ屁理屈で決められなくも無いか?)理屈を知っている事を見せたいために理屈を言っても意味は無い。(まあそうしたいひともいるかも知れないが・・)理屈は理不尽を追い払うためにあるのだと思います。武田氏を見てそう思う。
 武田氏は「今の若者はかわいそうだ」という。生まれたときから「資源がもうすぐ無くなるので節約しろ」と言われ、「核燃料廃棄物は君たちが処理法を考えろ」と押し付けられ、大人の利益のために働き場所を外国に持って行かれる。そのため、武田氏は理屈を持って「資源は当分なくならない」「節約は無意味だ」と説明し、「企業はコストダウンよりも魅力ある製品開発をめざすべき」と主張する。
 またプラスチックゴミと普通ゴミを工場で一緒に燃やしてるにもかかわらず(本当ですよ!)、分別せよと言われて困っている老人(うちの母親もそうです!)のために「分別はかえって資源を浪費する」と援護する。
 このような「日本で暮らす善良な人々に対する愛情のために理屈を用いて武装する」のが氏の発言の趣旨かと思います。(ちなみに本人も自分で言ってますが「右より」人間です。原爆を投下したアメリカを嫌悪する主張は少し行き過ぎではないかと私は思います。)氏が一時間くらいの講演をすると、終わりの方でこのような価値観に基づいたお話をされます。メデイアに対する露出の仕方だけを見て武田氏を嫌悪されてる方も多いと思いますが、是非一度話をお聞き下さい。TV番組では時間が制約されすぎて真意が伝わっていないことがわかると思います。(例えばYOUTUBE「武田邦彦20110902⑨筑後講演

<私が日々感じること>
 私の父親が私の歳くらいだった頃、農家の暮らしは非常に厳しい時代でしたが、社会的ストレスはずっと少なかったと思います。「今日も一日過ぎましたー」と(ため息ではなく)明るい声で一息つくのが父親のくせでした。やるべきことを誠実にやっていれば何とか暮らせました。しかるに今は「年金は自分で確認しろ」とか「ゴミはこうやって出さないと持って行きません」とか挙句の果ては「裁判に参加しろ!」とか言ってきます。役所の都合でパソコンを使わないといけない手続きがどんどん増えるので、しかたなくウイルス対策やソフトの更新を仕事の合間にやっていかないといけない。母親を連れて銀行へ行くと目の見えにくい母親に無理やりサインを強いらないと手続きができない。
 「こういう社会はおかしい」と思う。人が健康であるためには「食べるもの」(これは今回関係ないが)と「ストレスがないこと」が一番大事だと思う!自分が行動するのではなく「行動させられている」ことに違和感を感じる。人々のためのルールのはずが人々を窮屈にする。なぜこうなってしまうのか??といったことを武田氏の語り口とともに考えたいと思っています。

 
 
 

 
 

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