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2018年5月22日 (火)

60回目 まわりはみんなのっぺらぼう! その1

60回目 まわりはみんなのっぺらぼう! その1
 -コミュニケーション回避社会ー

<電車の中で>

 2017年10月23日、前の晩台風21号が通過した朝のこと。私は南海本線貝塚駅から大阪の難波へ向かいます。TVで正常運行していることを確認し、家を出たのですが、駅に着くと、その間に不通になっていた。
 こういう事故の場合、駅のアナウンスはだいたい要領を得ない。というか、この日は「ただ今不通です」という貼り紙をしているだけ。何の説明もない。しかたなく駅員に問い合わせると「めどが立たない」の一点張り。間違えてもよいから、いつごろ運転再開になりそうかくらい教えてほしいといつも思うのですが、答えてくれない。これでは待とうか、引き返そうか、判断しようがない。と思って周りを見渡すと、不思議な光景を見た!

 駅に着いた際から何か違和感があったのですが、まず人が改札の前に大勢溜まっているのにもかかわらず、異様に静である。よく見ればみんなスマホの画面を見ている。多くの人は、駅からの情報を期待せず、スマホで検索しているのだ!
 しばらくして、運転が再開されたのだが、その後違和感は増すばかり・・・再開直後は、各駅停車だけの運行でしたが、私は来た電車に何とか乗れた。駅に停車する度にそれまでずっと待たされていた人が乗ってくる。当たり前ですがすぐに満員になる。そうなると駅で待ってる人は乗れなくなる。
 満員といっても、もう少し奥の方に詰めれば乗れるのに・・・ドアの近くの人は詰めようとする気配もないし、積み残されそうな人も「もう少し詰めてください」とは言わない・・・

 以前は、そうしたやりとりが見られたのだが、不思議で仕方がない・・・自主的な気配りとか、人にお願いするといったコミュニケーションがなく、とっても静かである。大阪でこうならば、東京ではもっと皆おとなしいだろうと思った瞬間、そういえばそういう光景をみたなあーと腑におちた!!!

  それは、東北大震災の際、海外メデイアが「災害時の日本人の冷2_3
静さは賞賛に値する」と報道した右図のような光景!確かに多くの人はスマホを見ている!私の体験とそっくりなので雰囲気がよくわかる!とにかく異様に静かなんですよ。

 これを「日本人はすばらしい!」と自画自賛する向きもあります。たしかにわめいたり騒いだり扇動するような行動がないのは、ほめられてよい。ただこの種の報道で誤解を生みがちなのが、日本人のマナーの良さを賞賛するあまり、災害地で犯罪も全く起きてないような印象を与えるのは、実情に反しているということ。
 ただし、ここで問題にしたいのは、この点ではなく、「コミュニケーション不在」のほうです。この言い方も実は偏向している。災害時には水や食べ物を分け合う等、普段以上に助け合いが行われたのも事実です。この二面性を踏まえながら考えないといけません。

<若者と同調圧力>

 今どきの若者は、「目立つ」ことをとても恐れるそうです。それは「いじめ」の標的になる可能性を意味するから。少々孤立するだけなら、その人間のキャラクターといえるとは思うのですが、今の時代は、孤立していると嫌がらせを受け続けることになるようで、それはつらいですね。
 結果として、空気を読みながら、自己主張せずに自分の役割を演じることが求められる。これを同調圧力としてストレスに感じる人間もいるだろうし、根っから上手に生きていける人間もいるでしょう。
 こういう社会(「学級」がその典型でしょうね。)を外から見ると、いさかいのない、うまくいってる社会に見えるでしょう。特に管理する側からはとても都合がよい。(学級の場合は先生ですね。)
 でも考えると恐ろしい。自己主張をしないことに慣れてしまうと自分の意見を持つことがなくなる。人の言うとおりに流されている方が楽だという考えになってしまう。

 実際この傾向は調査によって実証されている。
以下のデータは2016年8月「高校生の生活と意識に関する調査報告書」によっています。これは、日本・米国・中国・韓国の高校生の調査を比較したものです。詳しくは検索してご覧ください。
 この結果で、日本の高校生に顕著なのは、「自己肯定感」の低さ。例えばポジテイブな項目について、「自分の希望はいつかかなうと思う」「私は人並みの能力がある」については肯定的な回答が4か国で一番低い。涙ぐましいと思うのは、「友達に求めるもっとも大事なこと」については「思いやりがあること」を選んだ割合が四か国で圧倒的に多い。

 ここで思い浮かぶのは、他人のは反対してまで自分の意見を言おうという気概を持てず、「嫌われる」ことにおびえ、自分を疎外しないで欲しいと周りの友人に求める姿です。

 社会学者の宮台真司氏は、自己肯定感が低いと、「損得勘定だけにより」振る舞うことになる。この傾向は親や先生とのデイスコミュニケーションに結びつくことがわかっているそうです。

 30年ほど前に若者だった私には違和感だらけです。なんでこんな社会になってしまったのでしょう??

<共感覚とコミュニケーション>

 もう少し宮台氏の説明を私なりに噛み砕いて詳しく述べてみます。

昔は社会に統一した価値観が存在したので、他人の事を自分の問題としてとらえる「共感覚」が存在していたが、コミュニテイーが崩壊し、個人が孤立すると、「きっと誰かがどこかで自分だけが得するようにうまいことやってるに違いない」という疑心暗鬼がうまれる。そうなるとコミュニケーションは成立しないし、コミュニケーションしようという意識もなくなる。
 
 電車の中の光景はその段階のお話であるのに対して、震災時に水を分け合ったお話というのは、自分も他人も困っているという「共感覚」が助け合いに結びついたという事例であり、実は正反対の意識だと言えますね。

<京都大学の立て看板撤去のお話>

 京大名物であった、通り沿いの「立て看板」が全て撤去されたそうです。今の社会そのままの出来事やなあと思い、やれやれと思いました。
 私も1回生の折、高校の同期生と後輩の受験生のために応援看板を立てた。当時の漫画キャラクターの「タブチくん」がホームランを打ってる絵をかいて「たまには入ることもある」と文字をいれた。聞くところによれば、「こんな看板もあります」とニュースで紹介されたらしい。
 当時はこんなおとなしい看板だけではなく、特定の教授や学校側を糾弾するような看板であふれていた。今回撤去前の写真を見ると、そのような物騒な看板は影をひそめ、サークルの勧誘や、最も激しいものでも「原発再稼働反対」程度のものである。1_2
 これらは「京都市景観条例」に違反するという名目で撤去されたそうです。その是非はともかく、違和感があるのは、学生の抵抗はほとんどなかったようだという事。記事によるとある団体の学生は「大学側の公認が取り消されると困るので自主的に撤去した」とか。とにかく自分たちだけが孤立するのは困るので粛々と体制に従うということですねえ。聞き分けのよい学生が多いわけです。権力側には無駄な抵抗をしないことはある意味「賢い」とも言えますが、なんとなく寂しい・・・

次回はそうした「若者の葛藤」について書かせていただきます。

 
 

 

 
 

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