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2016年4月14日 (木)

53回目 「そうは言っても・・・」とは言うな!

「そうは言っても・・・」とは言うな!
 ーいわゆる「日本教」についてー

<落ちるところまで落ちないと気付かない??>

  H28年3月17日、TBSラジオ「荒川強啓デイキャッチ」中で、評論家の山田五郎氏が「ボイス」のコーナーで語ったお話。
 「日本はすでにアジアNo1の経済大国ではない。実質レベルではアジアの中位というのが正当な評価であるが、自分たちは相変わらずNo1だと思っている。家電など不採算の事業は外国に売っちゃって、新しい芽を育てる時期なのに全く意識が変わらない。これはもう落ちるところまで落ちないと気付かないのではないか?」

 同じような内容を3月22日、寺島実郎氏「月刊寺島文庫通信」で語っている。
 「東北大震災から5年。それ以前から、東北の過疎化は問題になっていた。震災をきっかけに、これからどうやって『食っていくか』を行政も住民も考えないといけないのは震災前からわかっていた。実際震災直後には、経済成長一点張りの路線に対する疑問を投げかける議論がさかんだったが、いつの間にか消えてしまい、転換するチャンスを失ってしまった。」
 「こうして相変わらず社会全体の意識は変わらない。本質的な議論はいつのまにか打ち消される。なにで飯を食うかという産業論に向き合わずに、マネーゲームで経済が立てなおせるという誘惑に負け、結果として国民の可処分所得は一向に上向かない。」

<「そうは言っても」といえばどうなるか?>

 脚本家の倉本聰氏「そうは言っても」という言葉は様々な悪弊を生むという。何となくわかります。例えば

 「原子力発電は使用済み燃料も問題が解決されていない。なおかつ事故は起こりうるし、ひとたび事故が起きれば、予期できない影響を及ぼす。」故に→「原発は速やかにやめるべきである」
 この論理は「事実」から導かれた理屈です。後半は福島で実証されました。しかしこの道理は受け入れられない。
 「そうは言っても「電気代が高くなったら困るし、(これは事実ではない)電力の安定供給のために必要である。(実はウランより化石燃料の方が安定供給可能な資源です。)なにより温暖化を引き起こしてはいけない。(詳しく説明しませんがこれが一番怪しい)」という何となく単に「ご都合」に合わせた話が通ってしまう。先ほどの道理が反証されたわけではなく、これには触れずに話をすりかえてしまう。もうひとつあげましょう。

 「沖縄には日本の米軍基地の74%が集中する。これは不公平である」というのは自明な理屈ですが一向に改善されない。
 「そうは言っても「沖縄の米軍は抑止力のために重要である。(「抑止力」とは何の定義もない抽象的な用語です。)特に最近増大する中国の脅威に対抗するために必要不可欠である。(中国が戦争を仕掛けてくることは現実にはあり得ない。)」

 「そうは言っても」という前置きでもっともらしく聞こえる言い訳がなされ、本質が抜き去られ、今すべき事が忘れ去られます。これは日本の国に綿々と伝わる宗教のようなもので、山本七平氏「日本教」と呼んでいます。

「日本教」とはどんなものか?>

 山本七平氏小室直樹氏の共著に「日本教の構造」という本がありますが、小室直樹氏が「日本教」と題した番組(https://www.youtube.com/watch?v=xEyEUAvbUbo)の中で「日本教」のエッセンスを解説していますので、列記します。

①社会においては「日本人の都合」がなによりも優先される。その過程で物事の本質は抜き去られる。
 例えば仏教を取り入れながら、その教義の本質は忘れ去られ、「戒律無き仏教」に加工された。

②「何物も信じていない」従って「行動規範は作りえない」
 これは今に至るも「憲法」が政治の規範となっていないことからもよくわかりますね。

③「決定」は「おぜんたて」によってのみなされる。そこを支配するのは「空気」である。
 なにをかいわんやですね。

<福沢諭吉と明治維新>

 福沢諭吉はもちろん「日本教」という言葉を使ったわけではないですが、日本を一流国とするためには、日本の文化の底にあるアジア的な奴隷根性を排して、ヨーロッパ並みの人権感覚を身に着ける必要があるということを認識していた。
 そのためには西洋でキリスト教の果たしている行動規範としての役割を天皇(神道)に求めた。
 当時一般国民にとって天皇とは「そういう人がいるらしい」という程度の存在であったらしい。幸運にも(?)日清・日露戦争に勝利する過程で天皇は神格化されていったそうです。「神国日本」の思想ですね。
 一流国を目指していた日本は、日露の戦争において、5年前のハーグ平和会議で決められた戦争に関する国際条約を完全に遵守し、国際的な信用を高めることにもなった。恥ずかしくない国になるためには規範意識は高くあるべきという意識があったわけです。

<敗戦へ>

 それでも「日本教」は、生き続ける。第二次大戦を始める頃には「道理」ではなく「空気」が支配していた。その戦い方においても「合理」ではなく「精神」が優先された。
 「敗戦」の結果、天皇は、規範ではなくなった。その後は経済復興が唯一の目標となったわけですが、バブル崩壊以後、その拠り所もなくなった日本には何もなくなってしまった。

 以上が小室直樹氏の見解です。

<そして今>

 今も変わらず無意識に「日本教」の崇拝が続いていることが、冒頭のコメントに結びつく。そのままではまずいということを解決しようとはせずにそうは言っても」論理で、その場しのぎを続けている状況なわけですね。同様の指摘をしている有識者は数多くおられます。しかし彼らが声を上げるほど、それらを排除しようとする空気が生まれるのが「日本教」なわけですね。

<民主主義について>

 ですので「仏教」の場合と同じく「国民主権」「民主主義」「自由・平等」「立憲主義」という概念についても、本質が抜けたまま自分たちの都合の良い解釈がなされたまま、理解したものと思い込んでいる。実はこれらは「不断に追及し続けないと実行できない理想」(丸山真男氏による)であるのに。
 苦労してこれらの権利を獲得した歴史を持つ欧米の国々では、それを身をもって理解している。
 アメリカの大統領選がこんな長期間をかけて行われるのも一例ですね。これは単なるお祭り騒ぎではなく、国民が民主主義を理解するための必要な儀式のようなものです。
 また、北欧の国では、小学生に議論をさせて「遊び場にどんな遊具を置くか?」を決めるといった教育がおこなわれているそうな。小さい頃から「民主的に決定する方法」を身に着けるわけです。高校生までは、国民としてのこうした規範を教えることが、教育の第一義だという話を聞いたこともあります。そう考えると日本の教育がとっても貧相に思えますね。
 でも国民が「民主主義」の意味を理解しない方が「支配者側」にとっては都合がよい!日本が「民主主義」というより「官僚支配主義」であるのは、明治維新における「上からの民主主義化」において、行き場のなかった武士たちを官僚として採用したことに起因するそうです。市民にものを決めさせないという体制が連綿と続いているわけですね。「おぜんたて」による意思決定が隅々まで浸透しているわけです。
 
 <若者たちの芽がつまれないように・・>

 今、ある自治体における開発計画の構想にかかわっています。 構想は自治体の上位計画に整合する必要があるので、調べたところ、市政の大方針はおおむね10年ごとの「総合計画」で決定されており、今はその改訂作業中であるとのこと。
 そのプロセスは、まず市民アンケートが行われ、その後分野に応じた分科会に市民が参画した「市民会議」が行われ、それを専門家を交えた会議である「総合計画審議会」を経て、一年半程度かけて策定作業が行われるというもの。  
 これを見ていると、市民の声を聞きながら、慎重に議論を重ねて、ち密な論理を組み立てているように見えます。さて実情は如何に?
 想像に難くないですが、隣の自治体で、同様の会議に参加した人に聞いたところ、やはり「おぜんたて」を追認する形で物事が決まっていくだけとのこと。それが証拠にでき上がった「総合計画」には医療・福祉等、各分野にわたって当たり障りのない目標が示されているだけです。「日本教」は綿々と生き続けているわけです。

 「シールズ」奥田氏は1992年生まれの23才、バブル崩壊以後に生まれた世代ですね。政府の方針に対する疑問を表明して運動に高めるためには、勇気と実行力が必要だったと思います。ただネットを見る限り様々な批判にもさらされている。周りの御都合主義によって、声がかき消されるように願うばかりです。

 「国民の声が届く」という言い方ありますが、これは、国家権力は「お上」だと認めてしまってるような表現ですね。これは「立憲主義」「国民主権」の概念とは全く一致しないものです。「集団的自衛権」の議論を通じてこの矛盾に気づいた人たちの道理が通るためにはどうしたらよいか?その立場にいる人はまじめに考えてほしいですね。
 
 

 

 

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